牧師室'22.6


 ◎ 2022.6 ◎ 

「わたしは祈りました」

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。
ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
(新約聖書 ルカの福音書 22:32)



  6月と言えば梅雨の季節ですね。俳句とか短歌などで用いられる季語を調べてみますと、そのベストスリーは、梅雨空 / 梅雨の月 / 梅雨の星 /とありました。
  さらに、植物のベストスリーは、桜の実 / 紫陽花 / 花橘 / とありました。私は紫陽花がトップかなと思っていたのですが、意外と、桜の実。これはサクランボのことですよね。
  ところで、教会の前の公園に紫陽花が毎年様々な種類、色の花を咲かせてくれます。
  そして紫陽花と言えば、雨が似合いますよね。晴れている時の紫陽花も良いのですが、雨の中に咲く紫陽花を見ていると、なぜかは分かりませんが、気持ちが落ち着くんです。私だけでしょうか?
  「梅雨の花 ホットひと息 アイスティー」
  さて本題に入りましょう。表題の御言葉はイエス様が、シモン・ペテロに言われたお言葉です。この前後の記事を見ますと、最後の晩餐と言われる場面です。イエス様が「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。」(ルカ22:15)と言われました。いよいよ十字架の時が間近に迫ってきている時でした。
  そんな重要な時に、弟子たちの関心事は「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。」(22:24)というのです。
  それに対してイエス様は、「あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。」(22:26)と言われました。イエス様はそう言われただけでなく、ヨハネの福音書を見ますと、「13:4イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」のです。
そしてイエス様は、言われました。「13:7わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」と。
  まさに、弟子たちはイエス様が言われたこと、成されたことを理解することができませんでした。それどころか、イエス様が捕らえられ十字架に架けられる時、皆イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。
  イエス様はそんな弱い弟子たちのことをよく知っておられ、理解しておられたのです。それでイエス様はシモン・ペテロに言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」(ルカ22:31)と。サタンは私たちの弱いところに攻撃してくるのです。弟子たちは、ローマの兵たちを目の前に、自分たちも捕らえられるのでは、と恐れたのです。
  恐れは、なんとかその場から逃れたいと思わせるのです。ですから弟子たちは、イエス様をおいて逃げ出してしまったのです。
  そんな弟子たちのためにイエス様は、「信仰がなくならないように祈りました。」と言われたのです。
  イエス様御自身が「祈りました」と言われるのです。
  ところで「信仰がなくなる」とは、どういうことでしょうか。
  ヘブル人への手紙12:2に「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」とありますように、「信仰がなくなる」とは十字架のイエス様から目を離してしまうことです。
  イエス様がお話しになった、たとえ話しの放蕩息子もそうでした。
  お父さんの目の届かないところで、自由気ままに、わがまましほうだい。貰ってきた財産も底をつき、気がついたら飢饉の中で、周りにいた人たちも、金の切れ目が縁の切れ目のごとく、誰も助けてはくれない。腹は減り、死の一歩手前で、走馬灯のように思い浮かんできたのは、父と共に生活していた幸せな日々でした。彼は我に返り言うのです。「息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」と。
  みすぼらしい姿をして帰ってくる息子の姿を見て父は、走りより、抱いて口づけし迎え、最良の着物を着せ、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と言って、宴会まで開いて喜んでくれたのです。
  資格のない者、息子と呼ばれる価値のない者を最高の愛を持って迎えてくださったのです。
  息子と呼ばれる資格などない私を、イエス様は十字架という最高の愛を持って迎えてくださるのです。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と。
  イエス様は目には見えませんが、神の御座の右に着座し今も生きておられ、私の「信仰がなくならないようにと祈って」下さっているのです。
  私たちは誰かが「あなたのために祈っているよ。」と言ってくれると、うれしくなります。
でも、何よりもイエス様が「わたしはあなたのためにあなたの信仰がなくならないように祈りました」と言ってくださっているのです。
  こんな心強いことはありません。どうか、イエス様がら目を離さないでください。祝福を祈ります。