牧師室'22.3


 ◎ 2022.3 ◎ 

     「私の楽しみと喜び」

私はあなたのみことばが見つかったとき、
それを食べました。
そうして、あなたのみことばは、私にとって
楽しみとなり、心の喜びとなりました。
万軍の神、主よ、
私はあなたの名で呼ばれているからです。
(旧約聖書 エレミヤ書 15:16)


  3月に入り、肌に触れる風が少しずつ暖かさを感じる季節となりました。
  とはいえ、心痛む出来事が起きました。ロシアの武力によるウクライナへの侵略です。何という愚かなことでしょうか。ただただ早期解決を祈るばかりです。
  さて、歴史を見てみますと、有史以来、人の集まるところには、争いが絶えません。そして、武力による争いがどんなに大きな悲劇を生むのかを繰り返し繰り返し学んできたはずなのに、なぜこうも愚かな争いが続くのでしょうか。
  それは一言で言うと「神を恐れることを知らないからです。」
  聖書は言います。「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(箴言1:7)と。
  しかし、神を恐れるとは、ビクビク恐れながら生きることでは決してありません。いえ、むしろ、神を真実に恐れることは、私たちの人生に楽しみと喜びを与えてくれるのです。
  聖書のエレミヤ書を見てみたいと思います。
  エレミヤ書は、エレミヤという神から遣わされた預言者が書いた書と言われています。
  エレミヤは、神様に背く民たちに、神様の許に帰るようにと、恵み深い神様からのメッセージを伝える預言者として立てられます。
  エレミヤ書3:12「行って、次のことばを北の方に叫べ。『背信の女イスラエルよ、帰れ。─主のことば─わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。わたしは恵み深いから。─主のことば─わたしは、いつまでも恨みはしない。」と。神様の民として選ばれたイスラエルの人々が、神ならぬ神を礼拝し、神様を恐れる心を失ってしまったのです。けれども神様は、そのような人々に預言者エレミヤを通して「わたしの許へ返ってこい」と言われるのです。神に立ち返れ。そうすれば神は背きの罪を許し滅びから祝福へと導くと語るのです。
  しかし、民は心かたくなにエレミヤの語る神様からのメッセージを聞き入れようとはしません。
  それどころか、エレミヤが真実をもって語る神様のことばを封じようと、牢に入れたり、穴に放り込んだり、なんとか亡き者にしようとするのです。
  いつの世も、正しいことを語るが故に迫害を受けると言うことがあるのです。いまも世界の至る所で、イエス・キリストを神と述べ伝える人々が迫害を受けると言うことが現実に起こっているのです。
  しかし、そのような民のために、「13:17 もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」と、エレミヤは、民が滅びに向かっていく姿を思いながら、涙ながらに神様のお言葉を伝え続けるのです。
  しかし「彼らは聞かず、耳を傾けず、ほかの神々に犠牲を供えることをやめて悪から立ち返ることはなかった。」(エレミヤ44:5)と。
  エレミヤが「涙の預言者」と言われるように、神様の真実を語り伝える宣教師たちは今も多くの涙を流し、人々の救いのために、まことの神様の許へ帰ってこいと、人々を導くために神様の言葉・メッセージを語り続けているのです。
  なぜでしょうか。なぜなら、これこそが、人が生きる真理の道だからです。その道を示してくださったのが、イエス・キリスト様です。
  すべての人のために命を捨ててまで、その道を示してくださったのです。そして、イエス様は言われました。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」(ヨハネの福音書14:6)
  エレミヤが「私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。」(15:16)と言いました。
  エレミヤとは「ヤハウェ(神)が高める」と言う意味です。エレミヤは目で見ることはできない神様の霊によって導かれ、神様の言葉を語ったのです。そして、イエス様を信じる者は皆、御霊に導かれて歩んでいます。パウロはこう言っています。「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。」(ロマ 8:14)と。神様の子である者にとっても、エレミヤが味わったように、御言葉はその人を楽しませ、喜びを与えてくださるのです。
  個人的なことですけれども、コロナ渦にあって、以前より聖書を読む時間が多く与えられています。そのような中で、エレミヤ書を読みながら、改めて御言葉を楽しみ、喜びとする時が与えられていることを感謝しています。神様の言葉は、あなたにも楽しみを与え、喜びを与えてくださるのです。