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「わび・さび」
私は昔の日々を思い起こし
あなたのすべてのみわざに思いを巡らし
あなたの御手のわざを静かに考えています。
(旧約聖書 詩篇 143:5)
日本人の独特の感性を表す言葉として「わび・さび」と言うのがあります。しかし、「わび・さび」とは何かと言われてうまく説明できる自信はありません。ネットで調べてみました。 まず『わび』とは『侘び』と表記し、たとえ貧相であっても充実感がなくても、心が豊かになることを見つけ出すこと。 また『わび』には、ひっそりとしていて静かな中に美しい世界を見出す、という意味も持っている。そして『さび』とは『寂び』と表記し、静寂の中に奥深い美しさを感じる心を意味します。 そこで、新しい年を迎えようとしている2021年最後の日、「静寂の中に奥深い美しさを感じる心」を味わってみようと思いました。 聖書の中には「静まる」事を勧める御言葉が幾つかありますが、今回は、新年を迎えるに当たって、これが相応しいのではと思いました。 「私は昔の日々を思い起こし あなたのすべてのみわざに思いを巡らし あなたの御手のわざを静かに考えています。」 「昔の日々を思い起こし」とありますが、今日まで歩んで来た日々。決して良いことばかりではありませんでした。悲しいこと、病の中で辛い思いをしたこと等、数え上げれば切りがありません。 しかし、この御言葉の中で心に止めるべきことばは「あなた」です。 「あなたのすべてのみわざ」「あなたの御手のわざ」です。「あなた」とは神様です。 この詩篇143篇は標題に「ダビデの賛歌」とあります。ダビデは30歳で王になり、40年間国を治め、70歳で世を去りました。この詩は、ダビデの晩年の作と言われています。 ダビデは神様と共に歩んだ日々を思い起こし、「主よ 私の祈りを聞き 私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって 私に答えてください。」(1)とあるように、神様の深い真実に心を向けます。八人兄弟の末っ子として生まれたダビデ。が、なぜかダビデは、預言者サムエルの重大な宴会の席には招かれませんでした。けれども神様はダビデに心を向け、イスラエルの二代目の王として油を注がれました。 また、ダビデは琴の名手として当時の王であったサウル王の心を癒すために召されました。ところが、ダビデに嫉妬したサウル王により命を狙われるという、苦痛を味わうのです。やがてこのサウル王がペリシテとの戦いで戦死すると、民はダビデをイスラエルの王として立てました。 |
けれども、王としての地位も安定し、富も増し加わるにつれ、心のすきに傲慢が入り込み、人の妻を横取りし、その夫を死に追い込むという大きな罪を犯してしまいます。 けれどもダビデ王は、神様の前に心打ち砕かれ、全き悔い改めによって、憐れみ深い神様の赦しをいただきました。 ダビデの生涯は、多くの試練や失敗の連続でしたが、神様に対する厚い信頼と従順のゆえに、真実なる神様はダビデを憐れみ、導き支え抜いてくださいました。 晩年、彼は歩んで来た日々を静かに思い起こしつつこの詩を綴ったのです。 6節には「あなたに向かって 私は手を伸べ広げ 私のたましいは 乾ききった地のように あなたを慕います。 セラ」とあります。「手を伸べ広げ」とは、すべてを備え与えてくださる神様への絶対的信頼を表す姿をです。そして、「セラ」とありますが、これは「一時休止」つまり静まることを意味する言葉です。 一年の終わり、そして新たな年の初めに、神様の前に静まることは新たな歩みへと、心を備える大切な時となります。 詩篇46篇の記者はこう言っています。「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。」(10)と。 口語訳聖書は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と訳しています。静まると言うことは、今まで慌ただしく、あれこれと走り回っていたことをやめて、一時ストップして神様との交わりに心を向けよ。と言うことです。 皆さんと共に歩んで行きます新しい年、何とかコロナウィルス感染症が収束することを祈り願うのは当然ですが、与えられた日々の歩みの中で、神様の恵みを味わいながら、一日一日を歩んで行きましょう。 イザヤ書 30:15「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」とあります。 「静まる」ことによって見えてくるものがあるのです。「静まる」ことによって聞こえてくる神様の御声もあるのです。 与えられる日々の生活の中で、 「セラ」一時休止して神様の御声に聞き、新たな力を得て歩み出す日々でありたいと願います。神様の守りと導きと祝福の中、「わび・さび」を見つけ出すことができますように。 |