牧師室'16.6

◎ 2016.6 ◎

「神共にいまして」

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、
神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
<新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:15>



  私は、高山植物が好きです。最近は殆ど登山も、ハイキングにも行かなく(行けなく)なりましたが、頂上を目指し息を切らして上っていく途中で、愛らしく咲いている名も知らぬ花に出会うと、心が癒やされます。でもそれらの殆どは、天然記念物に指定されていて、採って持ち帰ることは出来ません。そこに行かなければ見る事が出来ないからこそ価値があるのですよね。
  ゴスペル・フォークソングに、『野に咲く百合の花は 御神の命(めい)のままに 誰も見ていなくても 綺麗に装うでしょう(中略)明日は明日のこと この日を大事にして 誰も見ていなくても つとめに励みましょう(中略)御神の胸の中に すべてを委ねきって心から献げましょう 感謝の祈りを 感謝の祈りを』と言う美しい歌があります。
  「きょうあっても、明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、良くして下さらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」(マタイの福音書6:30)
  このイエス様のお言葉に接すると、小さな小さな野の花が、とても輝いて見えます。そしてその花以上にイエス様は私たちを愛していると言って下さるのです。
  ですから、イエス様はだれひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをえることが出来るようにと、永遠に至る道を備えてくださったのです。何という大きな恵みでしょうか。
  ある人が、世界中で最も輝いている言葉は、『ここにはおられません。よみがえられたのです。』(ルカの福音書24:6)と告げられたみ使いの言葉だと言いました。
  そうです、イエス様は死んだけれども甦り今も生きておられるのです。イエス様が、十字架に架けられる前に、弟子たちに言われました。『私が生きるので、あなたがたも生きるからです。』(ヨハネの福音書14:19b)と。
  ですから、私たちの信仰生活の土台は、復活のイエス様ご自身です。言うまでもないことですが、そのイエス様がお語りになったみ言葉の上に信仰生活は築き上げられていくのです。
  地上にあって歩む私たちは、内に外にと様々な試練、誘惑に出会います。土台から揺さぶられるような大地震に見舞われることもあります。   そんな中にあったとしても、復活の主イエス様が、「いつもあなたと共いる」と御声をかけてくださるのです。ですから、「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」(ヨハネの手紙第一4:12〜16)との約束のゆえに、平安を得ることが出来るのです。
 私たちは、イエス様を神の子と信じ、信仰告白を持って日々生かされているお互いですから、御言葉の約束の通り、間違いなく、神様は私たちの内におられるのです。そして主イエス様がうちにおられるなら、助け主なる聖霊様が、私たちの内に平安の実を結ばせてくださるのです。そして、罪を悔い改めて、イエス様を神の御子と信じる信仰告白によって、私たちは神様の前に「きよい」者とされているのです。『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私たちをきよめてくださいます。』(ヨハネ第一1:9)と。
  私たちは、サタンの支配から、聖なる神様の支配の中に移された者、すなわちきよめられた、聖徒なのです。その私たちは、イエス様と同じ永遠のいのちの中にすでに生かされているのです。
  この手紙を書いたヨハネが、『私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。』(ヨハネ第一5章13節)と言っています。
  こんなに素晴らしい約束を与えられて、日々歩み行くことが出来るとは、なんたる恵みでしょうか。
  新聖歌508に『神共にいまして』という賛美がありますが、私たちが神様の約束を信じ、大胆に確信を持って、天の御国目指して歩む姿が歌われています。3節に『御門に入る日まで 慈しみ広き 御翼の陰に 絶えず育みませ』とあります。
  主なる神様が共にいて守り導いてくださいます。ハレルヤ!です。