牧師室'16.4

◎ 2016.4 ◎

「これさえあれば、大丈夫」

すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」
<出エジプト記 33:14>
「・・・見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
   <マタイの福音書 28:20>


  2013年12月4日、日本の食事「伝統的な和食」が、世界無形文化遺産に登録されました。四季折々、旬の食べ物が食卓を飾ります。そして、それらは、とても健康的で現代病といわれるものから身を守ってくれると言われ、若い人たちにも見直されています。さらに、外国の人々も注目しています。
  今はタケノコが旬ですよね。私は食べることが好きなので、食べ物の話しになると、ついつい熱が入ってしまうのですが、食事って大事ですよね。
  ところで、私たちが、この世で生きていくために、なくてならないものって、沢山ありますが、最低限必要なものは「衣・食・住」です。もちろん、これらは、無くてはならないものですが、言うまでもありませんが、私たち人間は、それだけで生きているのではありません。

  「・・・見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(第二コリント4:18)とパウロ先生は言いました。
  そして、この見えないものは私たちにとって「宝」であり、「この宝を、土の器の中に入れている。」(第二コリント4:7)と。
  土の器は、こわれやすい、私たち自身を指しています。でも、私たちは、計り知れない「宝」を内に持っているのです。
  見えないもの、「宝」とは何でしょうか、それは「神のことば」です。「神のことば」それは「イエス様ご自身」です。ですから私たちは、神のことばによって、すなわちイエス様によって生かされているのです。
  しかし、私たちは自分の知恵や知識で、このことを知ることは出来ません。この事をなしてくださるのは、私たちの内におられる聖霊様です。同じ第二コリント4:6に「『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」と言っています。
  よく、天の父なる神様と救い主イエス・キリストの事は分かるけれど、聖霊様のことが良くわからないと言われる方が、クリスチャンの中にもおられます。でも、父なる神様の事が分かり、イエス様のことが分かると言うことは、私たちの内におられる聖霊様によるのです。
  小川の水が、高い所から低い所に向かって流れるように、きよいお方は、土の器に過ぎない弱い私のうちに注がれるのです。 私たちは、三位一体「父と子と聖霊」なる神を信じているのです。これは理屈ではなくて、み言葉のうちに働く神の力によるのです。
  ですから、私たちに必要なのは神のことば、約束の言葉なのです。
  モーセは、自分にはイスラエルの民をエジプトから連れ出すような器ではないことを自覚していました。けれども、神様はモーセに言うのです。「私はあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである・・・」(出エジプト記3:12)。この約束のお言葉を頼りに、幾多の困難を乗り越えて、イスラエル人をエジプトの地から連れ出しました。しかし、荒野の旅は、それはそれは困難な旅でした。モーセが神様から十戒を授けられているとき、民たちは、金の子牛を造り、われわれを導く神様はこれだ、と言って偶像を礼拝するのです。
  それを知ったモーセは、神の前に民の罪のために執り成し祈るのです。「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・・。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、わたしの名を消し去ってください。」(出エジプト記32:32)と。
  モーセも人の子、疲れ果ててしまったのでしょう。
  そのようなモ−セに神様は言われるのです。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」(出エジプト記33:14)と。
  私たちも人生の道半ば、疲れ果ててしまうこともあるでしょう。でも、イエス様は言われるのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)と。そして「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)。 「これさえあれば、大丈夫」なのです。信じる者にとって、み言葉こそが、無形文化遺産「和食」ならぬ魂を生かす「宝」なのです。