牧師室'16.3

◎ 2016.3 ◎

「喜びの器」

主は私を広い所に連れ出し、
私を助け出された。
    主が私を喜びとされたから。

(旧約聖書 詩篇 18:19)


  「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義 の訓練とのために有益です。」(テモテ第二3:16)とありますから、聖書のどれが好きとか言うのはおかしいのですけれど、敢えて言いますと、私は詩編が好きです。
  日常の生活の中で、嬉しいことも楽しい時も沢山あります。けれど、疲れたり、思い悩んだりする事もまた度々です。そんな時には、詩篇を読むことで、慰められ、励まされ、癒やされることが多いのです。こんなこと神様に向かって言っても良いの ? と思うようなことも、正直に記しているので、共感する事が多くあります。そして、そうした思いをみな受け止めてくださる神様のお心に触れ、慰められるのです。
  そんな訳で、今回は詩篇18篇から御言葉に教えられ、気づきを与えられたいと思います。
    さて、私ももう、67年生きてきました。とは言え、100歳でもなお元気に活躍されている方々も多くおられますので、まだまだ青二才です。そのような方々に対して驚きと共に、敬意を表する者です。しかし、自分の中で、あれもできなくなった、これもできなくなった、と自分を狭くしてしまっている自分があるように思います。
  ましてや体調を崩してしまうとその思いは更に強くなります。
  そんな時、自分の弱さを認めつつも、御言葉に励まされ、慰められる事しばしばです。
  「主は私を広い所に連れだし、私を助け出された。主がわたしを喜びとされたから」と。何と慰めに満ちたお言葉でしょうか。
  この詩篇18篇は、ダビデが、サウル王にお仕えし、度々サウル王が神の霊におびえる事かあったとき、サウル王がダビデの弾く竪琴によって元気を回復し、「わざわいの霊は彼(サウル王)から離れた(第一サムエル記16:23)」と記されています。
  そんなダビデが、命を狙われるのです。けれども主がダビデを守り救い出されたのです。その日に、主に向かって歌った歌であると記されています。
  ダビデはその時の心境を吐露して「死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。私は苦しみ
の中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。」(詩篇18:4〜6)と歌います。
  ダビデほどの苦しみではなかったかも知れませんが、一度や二度そのような求めを主に向かって叫んだこともあります。そして、ダビデにもそうであったように
  「御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。」という事は何度となく経験させていただいています。
  「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ46:4)」と主は言われるのです。
  話はチョット変わりますが、100歳を超えたある人が、こんなことを言っています。「私には死生観がない。・・・考えたところでしょうがないし、どうにもならない。・・・人間の領域ではない事に、思いを巡らせても真理に近づくことはできません。それなら私は、一切を考えず、毎日を自然体で生きるように心がけるだけです。」と。
  でも、これがこの人の死生観でしょう。青二才の若造が言うのはおこがましいのですが、人間の考えや思いをどんなに巡らせても真理に近づくことはできないでしょう。
  でも、この方も、真理そのものを否定してはいません。
  人の「生きる死ぬ」の真理は、人間の領域ではない、まさしく神様の領域です。そして、イエス様こそが真理なのです。ですから、私たちを造り、愛しておられる神様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちである」と言われた独り子の命を私たちに与えてくださったのです。
  チョット理屈っぽくなりましたが、真理なるイエス様に出会った私たちはなんと幸いなことでしょう。
  しかも、その神様が私を喜んでいてくださるというのです。これに勝る喜びがあるでしょうか。これこそが、世に生まれてきた最高の価値ある命すなわち、私たち一人ひとりなのです。
  「喜びの器」である私たちの内に、神様の喜びを満ち溢れさせてくださいますようにと祈ります。