牧師室'16.2

◎ 2016.2 ◎

「祝福の杯」

私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。
私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:16)


  今日は、『祝福』という事について考えてみたいと思っています。
  皆さんは、一日に何度くらい「祝福」ということを言葉にしたり、思ったりしますか?この「祝福」という言葉を調べ思い巡らしますと直接その言葉は使わなくても、私たちは、特にクリスチャンは、多くの「祝福」を分かち与えていると言うことに気づかされます。「祝福」の元々、ルーツをさぐってみますと、創世記12章にあります。
1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
と神様はアブラム(アブラハム)に仰せられました。
  すなわち神様の御言葉に聞き従う者は「あなたの名は祝福となる」と言われるのです。新約聖書ガラテヤ書人への手紙3章7節・8節に
7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。

とあります。ですから、信仰による私たちもアブラハムの子孫であり、神様の祝福をもたらす者なのです。
  ところで日本語大辞典によりますと、【祝福】@人の幸福を祈り、また祝うこと。Aキリスト教で、神から与えられる幸福。とあります。
  最近よく歌われます新聖歌198番に「God Bless You 」と言うのがあります。これは「あなたの上に神の恵みがありますように」という意味です。良く別れ際に聞くことばです。ですから、「祝福」は祝福の基とされた私たちが、他の人々に対して、分かち与える事なのです。
  そこで、では、神様の祝福とは何かということです。
  今日の聖書箇所(コリント人への手紙第一10章16節〜17節)は、聖餐式のときに必ずと言って良いほど読まれる御言葉です。
16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
  そして、同じコリント人への手紙第一11章24節〜27節が読まれます。24節と25節だけを挙げておきます。
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
  私たち熊本ナザレン教会では、毎月第一聖日に聖餐に与っています。これは聖礼典と言われています。<聖礼典=プロテスタントの殆どの教派は、洗礼と聖餐以外のものは新約聖書において、イエス・キリスト自身による制定が確認されないとして、この二つを聖礼典と定めています。>
  私たちは信仰によってアブラハムの子孫とされています。その信仰とは、イエス様を救い主と信じる信仰です。
  そこで、16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。とありますように、私たちはイエス様の十字架の血潮によって、罪赦され、神の子とされ、天の御国を受け継ぐ相続人とされているのです。
  テトスへの手紙3章6節7節に
6 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
7 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。
とあります。
  ですから私たちは、聖餐に与るとき、イエス様ご自身を心のうちに味わうのです。イエス様の十字架の血潮、それが、私たちの祝福の土台となっているのです。
  最初に、皆さんは、一日に何度くらい「祝福」ということを言葉にしたり、思ったりしますか?とお聞きしましたが、一日の生活の中で、誰かの為に神様に祈る事、それは取りも直さず、直接「祝福」という言葉はいわないとしても、執り成しの祈りそのものが、相手の祝福を求めることなのです。
  あなたはその事によって、イエス様の「祝福の杯」を祈りの中で味わっているのです。日々主イエス様の十字架を仰ぎましょう。祝福がありますように。