牧師室'15.11

◎ 2015.11 ◎

「乳飲み子のように」
2生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。
それによって成長し、救いを得るためです。
3あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
(ペテロの手紙第一 2:2〜3)

  最近はおせち料理をつくる家庭が少なくなって来たせいでしょうか、この時期になりますと、非常に豪華なおせち料理が、チラシ等で宣伝され始めます。幼いころを思い出すと、「古き良き時代」と言いますか、懐かしくもあり、寂しくもあります。時代と共にお正月の迎え方も随分様変わりしてきましたね。
  またこの時期、秋の風物詩と言いますか、よく見かけるのが、干し柿作りです。軒下にぶらさがっている柿を見ると秋深しですね。
  こうして私たちは、今が「旬」などと言いながら、季節ごとに美味しいものを頂きます。ところで、私たちは、普段余り意識していないのですが、当たり前のように時間が来ると食事を取ります。
  けれども、食べたくても食べるものがない、飲みたくてもおいしい水がない、そんな生活を強いられている人々も世界には沢山います。食物が、そして水がなければ、やがてやせ細ってしまいます。でも、やせ細るのは、肉体だけでしょうか?詩編の記者はこう歌います。「1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(詩篇 42:1-2)と。 そして、だれよりもイエス様の慈しみ深いことを味わい知ったペテロは、「2生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。3あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」(ペテロの手紙第一 2:2〜3)と、試練の中にあるキリスト者を励ましています。
  私たちもまた、弱気を覚えることがあります。そんなとき「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(コリント人への手紙第二 12:9)とのみ言葉に励まされます。あるいは、いったいどの道を進めば良いのか岐路に立たされたとき、「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。」(イザヤ書 30:21)とのみ言葉に平安を与えられるのです。
  そしてイエス様は言われるのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちである。」(ヨハネの福音書 14:6)と。
  先日ある方が尋ねてこられました。若いときに洗礼を受けクリスチャンとして歩んできた。けれども周りの人から自分は受け入れてもらえない。時には「他の教会に行きなさい。」と言われたこともある。そんな中、暫く教会から離れていた時期があった。でも、心の中にはいつも、イエス様を求める思いがあった。私がイエスを信じますと信仰告白したとき、「あなたの罪は赦された」というイエス様の救いのお言葉を疑ったことはない。こんな者のためにもイエス様は十字架に掛かってくださった、と言うただその事にだけすがって、歩んできた。 今はそんな私を受け入れてくださる教会にも巡り会い、感謝しています。と言うことでした。
  クリスチャンであっても、時には教会でさえも過ちを犯すことはあるのです。
  けれども、イエス様のいつくしみと恵みとは、決して変わることはないのです。
  ペテロが「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」と言っていますように、私たちはイエス様の恵みといつくしみを味わい、その中で生かされているのです。これは主イエス様の約束です。
  ですから、お腹をすかした赤ちゃんが、乳を求めて泣き叫ぶように、いついかなる時にも、いのちのことばである、イエス様に叫び求めるのです。そうするなら、必ず平安が訪れるのです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 」(コリント人への手紙第一 1:18)そうです。み言葉は「神の力」なのです。ですから私たちはみ言葉を慕い求めるのです。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」
  神様の祝福をお祈りいたします。