牧師室'15.10

◎ 2015.10 ◎

「信仰の人アブラハム」

そういうわけで、信仰による人々が、
信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
(ガラテヤ人への手紙 3:9)


  私たちには、初め(生まれた時)があり、そして終わり(神様の許へ召される時)があります。どんな事にも初めがあり、終わりがあります。聖書は世の初めから世の終わりまでを書き記しています。「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。けれども、世の終わりはまだ終わりではないのです。世の終わりは来ます、しかし聖書は、新しい天と地、新創造について記しているのです。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。」(黙示録21:1)。また、ペテロの手紙第二3:13には、「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」と記しています。それらは創造した方でなければ示すことの出来ない約束の言葉です。ですから「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(テモテ第二3:16)とある通りなのです。そして、神様は言われるのです。「私はアルファ(Α)であり、オメガ(Ω)である。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13)と。
  その神は、多くの人々の中から、アブラム(後にアブラハム)という人物を選んで、神の選びの民を興し「あなたは祝福の基となるであろう。」(口語訳・創世記12:2)と言われました。※新改訳では「あなたの名は祝福となる。」と訳されています。
  アブラムは神様の言葉に従い、家族を連れて、神様の示す地へと出て行きました。アブラム75歳の時でした。
  時が流れ、アブラムが99歳になったとき神様はアブラムと契約を結びます。「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」(創世記17:5)と。
  創世記12章から始まる、アブラハムの生涯を見ますと、「信仰の人アブラハム」と言われているのがよく分かります。
  しかし、そう言われるアブラハムも、何度か失敗をします、しかし聖書はその事も隠さず述べながらなお、彼を信仰の人、と呼んでい入るのです。
  つまり、私たちも含めて、神様の前に完璧な人など一人もいないのです。いえむしろ、「自分なんか?」と思っている人の方がはるかに多いのではないかと思うのです。
  ところで、アブラハムの生涯におけるクライマックスは、愛する独り子イサクを生け贄として献げるよう神様に言われたときのことです。彼は神様の命令に従うのです(22章)。
  私なら、「神様そればっかりは出来ません。」と叫ぶに違いないのです。もとより神様はそのようなことを私にお求めにはならないでしょう。
  なぜなら、神様はアブラハムを、信仰の父として特別に選ばれたのです。それは正に、神様が愛する独り子イエス様を生け贄として献げる雛形としての役割を彼に与えたのです。
  神はあくまでも、全人類の救いを計画されたのです。その為に、アブラハムを選び、信仰の父とされたのです。そのご計画は、正に神様の愛する独り子イエス様を、私たちの罪の身代わりに、生け贄とすることによって実現されたのです。それが、十字架の出来事です。
  私たちは弱くてもいいのです。いえむしろ弱いからこそ、神様の愛を自分のものとして受け止めることができるのです。神の子イエス様が命がけで私を愛していてくださるのですから。ですから私たちは、イエス様を信じる信仰によって、アブラハムの祝福を受け継ぐ者とされているのです。パウロ先生は言うのです。「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」(ガラテヤ人への手紙3:9)と。祝福とは、今も、そして永遠に神様と共にある、と言うことです。天地は滅びる。けれども私たちには「希望」が与えられているのです。
  それは、新しい天と地です。
  ですから、今この時がどのような状況にあったとしても、私たちは、祝福の中に生きているのです。イエス様が「私はいつもあなたがたとともにいる」と約束してくださったからです。
  「シャローム!」神様の平安があなたの上にありますように。
  「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)