牧師室'15.9

◎ 2015.9 ◎

「新しい命に生きる」

それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。  (新約聖書 コリント人への手紙第二 4:14)


  「人はなぜ落ち込むのか?それは這い上がるためだ。」何かのドラマで聞いた台詞です。
  「落ち込む」って誰もが経験している事ではないでしょうか。そういう私も、大小数え切れないほどの落ち込みを経験しながら、今日という日を生かされています。
  偉大な伝道者パウロ先生は「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(第2コリント4:8)と断言しています。
  なぜなら、「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせて下さることを知っているからです」(同4:14)と。まさに、たとえどん底まで落ち込んだとしても、よみがえりの主が引き上げて下さることを知っている、信じきっていると言っているのです。パウロ先生は、「私は信じた。それゆえに語った。」と言っています。
  よみがえりのイエス様に出会い、新しい命に生きる喜びを与えられた感動は、何ものにも動かされることのない信仰へと導いてくれるです。四方八方から苦しめられようとも、主イエス様を見上げ、従い通しました、とパウロ先生は証するのです。
  それと同じ信仰の霊を与えられている私たちも、「・・・信じた。それゆえに語った・・・」(第2コリ4:13)のです。私は熊本教会に遣わされて今年15年目を迎えました。その間に、30名を超える方々を主の御許に送らせて頂きました。中には、戦前・戦中・戦後を生き抜かれた方々もおられます。敗戦後旧満州、旧ソ連、韓国などから引き揚げ船に乗って、本国日本に帰って来られた方もおられるでしょう。敗戦という悲しみと、失望に落ち込んでいた人々が、どのような思いをもって祖国日本の土を踏みしめたことでしょうか?
  瓦礫の山と化してしまったふるさと(昭和20年7月の熊本大空襲の焼跡)を眺めながら、どんなに辛い思いをされたことでしょうか。
  しかし、此処が自分のいるべき場所と、破壊された町の復興に立ち上がった方々がおられたからこそ、今日の私たちがあるのです。感謝あるのみです。今年、敗戦後70年を迎えた私たちは、二度と再びその様な悲劇を繰り返してはならないのです。
  私たち熊本ナザレン教会は、今年創立100周年を迎えました。あの戦争によって山崎町教会も空襲に遭い全焼。当時の谷川勝利牧師は、掘立小屋式の仮住居で生活しておられたのです。(90周年記念誌123ページ)そして、引き上げて来られた方々も加わり、どん底から這い上がって来たのが熊本ナザレン教会です。その様な経験をされた方が、数名今なお信仰の歩みを共にしています。そして、口々に言われるのです。「信仰を持っていて良かった。」と。
  電車、バスを乗り継ぎ、あるいはタクシーや自転車、徒歩で来られるその姿に、言葉に表せないほどの大きな励ましを与えられています。「希望は信仰とともに生まれ、信仰が成長すれば希望も成長し、信仰の力が強くなれば希望も強くなる。」(フロマートカ著 人間への途上にある福音)。
  福音は人を生かす力です。イエス様を信じ歩む私たちは、帰るべき天の故郷を目指して、四方八方から苦しめられても、決して落ち込みっぱなしでは無いのです。「引き上げて下さる主がおられる」との希望を持って、与えられた地上での日々を歩むように主は導いて下さっているのです。それは、よみがえられたイエス様が、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネの福音書14:18)と言われたとおり、今も助け主である聖霊様が日々、「新しい命に生きる」霊の力を与え続けていて下さるのです。私は聖書が示して下さっているイエス様の約束に信頼しています。ですから、日々平安に導かれているのだと信じます。
  「落ち込むこともあります。」でも大丈夫。自分の力ではない、イエス様の約束によるのです。
  「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネの福音書8:12)
  「・・・気落ちせし者を もたげ立たすは、
憂いも涙も なめしイェスなり・・・」(新聖歌242)          アーメン!