牧師室'15.6


◎ 2015.6 ◎
「イエス様の花嫁」


その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
(新約聖書 ヨハネの福音書17:3)


  花嫁というと、どのようなイメージを思い描かれますか?
  純白のドレスを着て、バージンロードを、静々と歩く姿でしょうか。
  ひげ面の私が、ウエディングドレスを来て歩く姿を見たいと思いますか?そんな人誰もいませんよね。
  ところが、コリント人への手紙第二11章2節には、「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。《とあります。「あなたがた」とは、コリントの教会の信徒を指しています。女性はもとより、男性もいたでしょう。ですから聖書は、イエス様を信じる者は、女性も男性も皆、「キリストの花嫁《だと言っているのです。 しかも「清純な処女として」とあります。このことを思い巡らしているとき、次の言葉を思い起こしました。それは、「だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。見よ。すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙Ⅱ5:17)とあります。「新しくなりました。」とは、言葉を換えて言いますなら、「清純な、処女と」された、ということです。
  それは何のためか?といいますと、「キリストの花嫁」とするためです。
  ところで、当時のユダヤでは、親が決めた者同士が結婚するのが一般的でした。ですから、一緒になるには、時には4年も5年も、それ以上も待つこともあったのです。マタイの福音書1:18にはよくご存じの記事があります。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、御霊によって身重になったことがわかった。《とあるとおりです。
  もう少しその辺の事情を調べてみますと、結婚(一緒になる)する「時《は、花婿の父親に委ねられていて、もういいだろうと決めたとき、花嫁を迎えに行くのだそうです。ですから、花嫁は、ただ待つのです。いつ来るかわからないので、いつ来てもいいように準備をして3年でも4年でも、迎えに来るまで待っているのです。
  ということは、キリストの花嫁である、私たちは、花婿なるキリストがいつ迎えに来られても良いように、霊的に目を覚まして、花嫁としての支度を整えて待っているべきなのです。
  霊的に目を覚ましてイエス様のことばを守る者を、患難時代から守ると主は約束しておられます。
  イエス様は言われました。「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなた方がわたしにあって平安を持つためです。あなた方は世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。《(ヨハネの福音書16:33)と。
  私たちが、このイエス様のお言葉を、まったき信頼を持って信じるなら、私たちもイエス様と同じ、勝利者なのです。ではこの勝利とは、何に対しての勝利でしょうか。
  それは、イエス様が死から甦られ、天の父なる神様の許へお帰りになられたように、私たちもイエス様と同じ永遠の命に与ることに他ならないのです。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。《<ヨハネの福音書17:3>と。
  「イエス・キリストを知る《とは、知識として知るということではありません。「イエス様を知る」とは、イエス様と一つになることです。
  では、イエス様と一つになるということは、具体的にはどういうことなのでしょうか。 それは自分の生活の中心にイエス様を置いているということを明確に自覚する事です。それは、いつも主を喜ぶ心、絶えず主に祈る心、すべてこのことを主に感謝する心を持っているということです。
  たとえそれが、患難と思われるような中にあってもです。それがイエス様を知っているということであり、イエス様と一つであるということです。
  あなたは今、喜んでいますか。祈っていますか。感謝していますか。であるなら、あなたはイエス様と一つであり、永遠の命の泉があなたの内に湧上がり、平安と勝利の道を歩んでいるのです。
  ともに喜び、ともに祈るあなたがここにいてくださることを感謝します。そして、主イエス様が何よりもあなたを喜んでおられます。