牧師室'15.5


◎ 2015.5 ◎
《静けさはどこに》

神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。 あなたに誓いが果たされますように。
(旧約聖書 詩篇 65:1)


  《静けさ》の同義語としては、静寂、静粛などがありますが、その共通した意味は、《動きが少なく、穏やかなさま》を表しています。
  この《静けさ》という言葉で、よく知られている聖書の箇所は、詩篇46編10 節です。口語訳では、《静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。》と訳され、新改訳では《やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。》と訳されています。
  この《静まって、やめよ》と訳された、ヘブル語のラーファー רָפָה(raphah)という言葉は《失う、消え失せる、なえる、弱くする、静まる、捨てる、手を引く、手放す、猶予を与える、降伏する、抵抗するのをやめる》というように、とても幅の広い意味があります。現代社会、特に日本では、朝も、昼も、夜も、忙しく、落ち着きがなく、止まることを知らない、良く言えば活動的で、活気に満ちている、と言えるかもしれませんが、そのような中で、《静まる》ということは決して容易ではありません。ひとたび《忙しさという魔物》に吸い込まれたなら、そこから脱出することは容易ではありません。
  けれども、だからこそ私たちは《静まる》ことが必要なのです。クリスチャンにとって、《静まる》ことは、決して消極的なことではありません。いえ、むしろ神様とのより親密な交わり、より深いかかわりを持つことによって、神様に対する信頼を深めて行くことができるのです。ゆっくりとした時間の中で過ごす沈黙は、私たちの魂の耳を研ぎ澄ませ、神様が語りかけて下さる静かな御声に対しても敏感にしてくれます。
  ある人がこんなことを言っています。《ゆっくり・ゆったり、ゆたかに》という『三ゆ』の心の構えが必要です》と。
  預言者イザヤはこう言っています。《神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたは、これを望まなかった。》(30章15節)と。
  今からおよそ2700年も前の言葉ですが、何か、今この時代に、いえ私自身に語られているように思います。ですから、《静まって、わたしこそ神であることを知れ。》(詩篇46:10口語訳)という神の招き(命令)を新たな思いで見直したいと自分自身に言い聞かせています。
  詩篇65:1で言っていますように、真の静けさは、神様の御前にあります。
  忙しさや慌ただしさの中で神様の前に静まるとは、自分自身を見つめることに他なりません。忙しさに追われていると、すぐ目の前にあるものが見えなくなってしまいます。そして、優しさや、思いやる心も失われてしまいます。主なる神様が『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』と仰って下さっている言葉も、右から左へと抜けて行く、そんな日々を送っていないだろうか?
  その様な自分だからこそ、神様は《立ち返って静かにすれば力を得る》と招いておられるのです。しかしそれは訓練なしには育ちません。《静まること》《沈黙すること》《止まること》《頑張ることをやめること》《力を捨てること》によって神とのより深い交わりが保証されます。その意味で《静まり》は《深まり》でもあるのです。
  そうそう、思い出しました。 イエス様が船の中で眠っておられました。すると激しい嵐が起こって、船は転覆しそうになります。一緒に乗っていた弟子たちは、パニック状態です。そして、寝ているイエス様を起こします。
  するとイエス様は起き上がって風をしかりつけ、湖に《黙れ、静まれ》と言われました。すると風はやみ、大なぎになった。
  イエス様は、《私こそ神であることを知れ》と私たちを信仰の深みへと招いていて下さっているのです。