牧師室'15.4


◎ 2015.4 ◎
「今、私はここにいます」

40:7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
40:8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」

(旧約聖書 詩篇 40:7〜8)

  詩篇40篇は祈りに答えて下さる神への感謝と賛美です。
  旧約の時代、身代わりの犠牲として最も良く用いられたのは子羊です。レビ記9章3節b(後半部分)には「あなたがたは、雄やぎを罪のためのいけにえとして、また、一歳の傷のない子牛と子羊とを全焼のいけにえとして取りなさい。」とあります。
  イスラエルの民が、奴隷の地エジプトから脱出するとき、過越の犠牲として用いられたのも子羊でした(出エジプト記12章)。それ以来、イスラエルの民にとって、神様に献げられる生け贄は、神様への従順を現す儀式として欠かすことのできないものでした。けれども、神様が本当に求めている生け贄は、その様な儀式として献げられるものではなかったのです。そのことは旧約聖書にも何度か記されています。詩篇40篇もその一つです。40:6でダビデは「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いて下さいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。」と言っています。では、何もしなくてもいいのか?いえそうではありません。
  神様が求めておられるのは、私たち自身なのです。
  そのことをダビデは悟ったのです。
  7節8節です。「7そのとき私は申しました。『今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。8わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。』」と。
  しかし、儀式は儀式として重要な意味を持っていることも確かです。そのことを神様ご自身が身をもってお示しになられたのが、子羊イエス様の十字架でした。けれどもこの生け贄は、繰り返すことのない只一度きりの献げものとなったのです。しかも、神様のお心は、全世界の民に向けられていたのです。それは、取りも直さず貴方のためにであり、私のためにでもあるのです。ですから大切なことは、神様・イエス様との個人的な交わりを悟ることです。ダビデのようにです。「今、私はここにおります。・・・あなたのおしえは私の心のうちにあります。」と。
  私たちもこのことを悟り経験したなら、信仰の歩みは揺らぐことはありません。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、」です(詩篇23篇)。
  私たちはこうした人々の証を通して、私たちのうちに語りかけて下さる神の言葉を聞くのです。
  ですからある意味聖書を読むと言うことは、イエス様の十字架と復活によって新たな生き方を悟った人々に出会うことでもあるのです。ダビデ、イザヤ、エレミヤ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、パウロ・・・。
  そして、私たちは今、ここに、置かれているのです。イエス様の証人としてです。
  大伝道者といわれるパウロ先生は、イエス様を信じ従う人々を迫害しました。死に至る人々もいたのです。そんなパウロ先生がイエス様に出会い変えられました。   キリスト教の歴史は迫害の歴史でもありました。いえ今もです。日本でもかつてはそんなこともありました。変な動きがあります。後戻りするようなことのないように祈ります。
    さて、イエス様に出会ったパウロ先生も悟りました。ローマ人への手紙12章1節に「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とありますように、私たち自身が、神への献げものなのです。
  何か特別なことをする必要はないのです。「今、私はここに来ています。」と自らを神様に献げるのです。それが霊的な礼拝なのです。ですから礼拝は、教会に共に集まる公同礼拝、そして日々の歩みにおける神様との個人的な交わりの生活そのものと言えるのです。
  「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネの福音書 15:5)
  ハレルヤ!と主を賛美しながら、「今、私はここにいます」と、これは、取りも直さず「神様、私は今、貴方の前にいます。」との信仰の告白であり感謝の宣言でもあるのです。与えられている今日この時を、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝しつつ、主イエス様を見上げて歩んで行きましょう。行く先は天の御国。ハレルヤ!