牧師室'15.3


◎ 2015.3 ◎

「命に至る門」

7:13 狭い門から入りなさい。
   滅びに至る門は大きく、
   その道は広いからです。
   そして、そこから入っていく者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、
   その道は狭く、
   それを見いだす者はまれです。
(新約聖書 マタイの福音書 7:13〜14)



  右の写真は、ご存じと思いますが『狭き門』と言われる東京大学の「赤門」です。多くの人々があこがれ、この門をくぐることを夢見て試験に臨みますが、2014年度の発表によりますと、倍率は、全学部平均で3.17倍、学部によっては5倍というところもあるそうです。まさに『狭き門』です。
  今日の聖書の箇所ですが、イエス様が『狭い門から入りなさい』と言われたのは、勿論『赤門』のことではありません。
  イエス様が言われたこの『狭い門』を理解するためには、マタイ5章から始まる『山上の垂訓(説教)』と言われる、イエス様がなさったお話し全体を理解する必要があります。しかし、ここでは紙面も限られていますので、全体を見ることはできませんが、要点だけを見ていきたいと思います。5章1〜2節を見ますと、「1この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。」とありますから、弟子たちにお話しになったのです。「3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」で始まります。「心の貧しい者」とは、旧約のミカ書6:8bに「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」とあり、マタイの福音書11章29節には、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と主イエス様は言われました。
  ですから、『心の貧しい者』とは、イエス様を信じ、いつもイエス様に聴き従い、すなわちイエス様に学び、イエス様が父なる神様と共に歩まれたように、神と共に歩む人のことです。
そして、「マタイ5章10義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」とイエス様は言われるのです。「義」とは、真心から神と共に歩むこと(神との正しい関係)です。テモテが手紙に「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Uテモテ3:12)と書いてあるように、この世の中は、私たちを神様との正しい関係からひき離そうとする力がいつも働いているのです。しかし、そういう力に対して力で向かってはいけないとイエス様は言われるのです。
  「マタイ5章39あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」と。チョットいやなことを言われたりされたりすると、すぐにカッとなる私にとっては、まさに「狭い門」です。
  その様な私に、主は教えて下さったのです。「こう祈りなさい。」と。6章9節からの「主の祈り」です。
  日々、祈りのうちにイエス様に学び、イエス様がどのように生きられたかを思い見るとき、私の力ではない、その時、その時、必要なものは神様が与えて下さるのです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6:33)。
  イエス様は、私たちが神様に聴き従って歩む人生が、どのようなものであるかを、よく知っておられるのです。なぜならイエス様ご自身がそのような道を歩まなければならなかったからです。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」迫害を受けるとわかっているのに、わざわざその道を歩むことはあるまい。そうですよね。でも、イエス様は言われるのです。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)。
  イエス様は、山上の垂訓の教えの最初に、「天の御国はその人のものだ」と、天の御国についてお話しになりました。長いお話でしたが、要するに、イエス様という狭い門を通り抜けたら、そこは、無限に広がる牧草地があって、たとえ迫害の中を歩もうとも、「天の御国はあなたのただ中にある」と主は言われるのです。十字架で死なれたけれども、甦って今も生きておられるイエス様が永遠の「命に至る門」なのです。「25わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25〜26)