牧師室'15.1


◎ 2015.1 ◎

「永遠の今日」

イエスは、彼に言われた。
「まことに、あなたに告げます。
あなたはきょう、わたしとともに
パラダイスにいます。」
(新約聖書 ルカの福音書 23:43)



  今日、皆さんは何時にお目覚めでしたか?
  雨の日があれば、曇り、晴れ、時には雪の降る朝を迎えることもあります。でも、目覚めとともに「ああ!今日も生かされてこの日を迎えることができた。感謝!」と言える目覚めを迎えることができたなら、それは最高の日と言えるのではないかと思うのです。
  詩人ゲーテは言いました「今日という日に優るものはない」と。
  短い言葉ですが、心にズシッと響いてくる何かを感じませんか?
  良いことばかりがあるわけではありません。病との闘いの中で目覚める朝もあるでしょう。
  実はこの一年半、私は毎朝、めまいとともに目覚めを迎えています。毎晩寝る前に、「明日はスッキリとした気分で起きることができますように」と祈り眠りにつきます。
  けれども、今日もフラフラとベッドから起き上がりました。いつになったらスッキリとした朝を迎えられるのだろう?と思いながら一日を始めるのでした。
  けれども、いつ頃からか、「雲の向こうには、必ず青空がある。」という思いが与えられ、神はこのことを通してもまた、恵みの今日を過ごさせて下さるのだ。そして何よりも「今日も、イエス様がともにいて下さるのだから」と、その日を感謝することができるようになりました。
  ところで、阪神・淡路大震災から20年。今なお、心の痛みと闘っている人々、人の心の深いところで解決していないことが山ほどあります。東日本大震災(3月11日)からやがて3年を迎えます。
  もっと遡ると、今年戦後70年を迎えます。ここで書くことは致しませんが、深い傷跡はあちこちにあります。
  そのようなことを聞いたり見たりしている時に、ふと目にしたのが右にある言葉でした。印には「ゆたか」とあります。沖縄の人だそうです。「今日という日は、残りの人生の最初の一日」
  今年私たちは100周年という記念すべき年を迎えました。そして、与えられたのが「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることに与って来たことを感謝しています。」(ピリピ人への手紙1:5)の御言葉です。
  100年という歴史の中で多くの主にある兄弟姉妹たちが、十字架と復活の恵みの福音に与り、それを宣べ伝えて下さいました。その流れの中で今日という日が与えられているのです。ですから私たちにとって「今日という日は、主が与えて下さった最高の日なのです。」と言うことが本当にわかったなら、「今日も生かされてある最高の日」と感謝のうちに目覚めることができるのです。
  イエス様が十字架に架けられた時、一緒に十字架の刑を受けた一人がイエス様に言いました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出して下さい。」と。するとイエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と。
  「きょう、わたしとともに」とのお言葉は、「今日からず〜〜といつまでも、永遠にわたしとともにいる」と言うことです。
  私たちも、イエス様からお言葉をいただきました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、さばきに会うことがなく、死から命に移っているのです。」(ヨハネの福音書5:24)
  私たちがイエス様を主と告白し、神を信じたそのときから、約束のお言葉を信じる信仰によって、「永遠の今日」を生かされているのです。 そして、何よりも心強いことは、イエス様がともに歩んで下さるということです。
  朝目が覚めたとき「今日もイエス様がともにいて下さる。」と確信を持って歩み出すことができるのは、助け主なる聖霊様があなたのうちにおられるからです。
  「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたイエス様は、聖霊様を通して、
  「わたしはいつもあなたとともにいる」という約束のお言葉を思い起こさせ、平安のうちに今日という「永遠の今」を過ごすことができるように、行くべき道を照らし続けていて下さるのです。
  「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)
  今日、試練の中にある方もおられるでしょう。でもどうか「私は世の光である」と言われるイエス様に目を向けて下さい。また私たちはそのような方々のために、互いに執り成し、祈ることができる者とされているのです。「永遠の今日」を生かされていることを感謝しつつ。アーメン