牧師室'14.11


◎ 2014.11 ◎

「失って見いだす」


16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。     
(新約聖書 マタイの福音書 16:24〜26)


人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。
不自由を、常と思えば不足なし。
心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は、無事のいしずえ、怒りは、敵と思え。
勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、害、其の身に到る。
己を責めて、人を責めるな。
及ばざるは、過ぎたるに優れり。
( 徳川家康人生訓)
慶長八年(1603年)正月十五日
  私のような者がいうのはおこがましいのですが、流石に天下の将軍様、いいことを仰る。
  でもこの時代に生きる私たちは、出来るだけ重荷は背負わずに、少しでも楽をして、けれども時代の流れに遅れないように、急げ、急げとせかされ続けているのではないかと思うのです。ですから、堪忍できず、すぐに怒り、切れる。
  それは、自分は何のために生きているのかという確かな人生の目的、目標を持っていないからではないかと思う のです。  イエス様はこう言っておられます。 「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタ 20:28)。また、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ 19:10)   イエス様が世に来られたのは、明白な目的のため『仕えるため、いのちを与えるため、救うため、』であると言っています。   ですからその目的を達成するためには、自分自身を捨て なければならなかったのです。   イエスさまが『わたしに従ってきたいと思うなら・・・』と言われたその前に、記されていることに注目しなければなりません。それは、マタイの福音書16:21節です。 6:21 「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」とありますように、自分を捨てるとはどういう事なのかを、弟子たちに示されたのです。それは、父なる神様のお心に従順に従うと言うことでした。
  ピリピ人への手紙2:6〜8に 「6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」とある通りです。   家康が、「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。」といいましたが、イエス様は言われるのです。 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)と。 一生自分でその重荷を背負って歩む必要は無いのだと言って下さるのです。ですから、イエス様が「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われたのは、私たちの疲れ、重荷をすべて担ってくださるイエス様を信頼し、心から従順にイエス様にお従いすることなのです。 「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩 16:8) とダビデが信仰告白したように、 どのような状況に置かれようとも、主が共にいてくださるとの約束の言葉を握りしめるなら、「:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:9〜11)という信仰告白へと導かれるのです。   イエス様が「多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえられなければ」私たちの救いはありませんでした。ですから、イエス様が「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」と言われたのは、私のために死なれ、甦られ、今も生きておられる主イエス様を信頼し続けるということなのです。『私はイエス様のために生きているのだ』と大上段に掲げなくても、『いつも喜び、絶えず祈り、すべての事を感謝し』ながら、日々主を見上げ、主の御言葉に信頼して歩んで行くなら、「失って見いだす」という不思議な経験を味わうことが出来るのです。それは、主が私たちに与えて下さる『平安』です。イエス様はこの瞬間も共にいて、休ませて下さるお方です。イエス様の御名に栄光がありますように。