牧師室'14.9


◎ 2014.9 ◎

「神のお心」

6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
6:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。
(旧約聖書 創世記 6:5〜8)


  「親の心子知らず」と言いますが、子どもからすれば「子の心親知らず」と言うことでしょう。お互いにどこかですれ違ってしまっているのです。これは悲しいことです。そこで大切なのが、コミュニケーションです。
  コミュニケーションとは、「ことば・文字・身振りなどによって、意思・感情・思考・情報などを伝達・交換すること。」とあります。しかし、ぴったり相当する日本語はなく,使われている文脈に応じて〈心のふれ合い〉とか〈共通理解〉〈共同関係〉などと訳されています。何よりも、相手を理解しようという思いが大切なのです。
  生まれたばかりの赤ちゃんとのコミュニケーションで大切なのは、スキンシップと言われますが、抱っこし、お乳を飲ませ、声をかけ、ある意味では親からの一方的な行為です。そして、赤ちゃんは全く信頼しきっているのです。
  けれども成長するにしたがって、段々と自我が芽生えてきます。自我にも良い面もあるのですが、厄介なのは、自分中心です。聖書ではこれを罪と言うのです。よく言われることですが、悪いことは教えなくてもいつの間にか覚える。しかしよいことは、教えてもなかなか覚えてはくれないのです。
  さて、今日の聖書ですが、創世記6章の5節を見ますと、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあります。これが人間の悲しい現実なのです。
  私たちはこのノアの大洪水という出来事を通して、悲しい現実すなわち自分自身を見つめることが大切です。
続く6節には、「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」とあります。神様が「心を痛められた。」のです。私たちも,「心が痛む」と言うことを経験します。それは、私たちが、神様のかたちに似せて造られたからです。私たち人間は、神の心を持っているのです。
  けれども、生まれながらの人間はそのことを知らないまま、自己中心という罪を成長させてしまうのです。どこかでそれを断ち切らなければならないのです。それを、神様はノアの大洪水という出来事を通して,お示しになられたのです。
  そこでノアという人がどういう人であったのかを見てみましょう。6章8節9節を見ますと、
6:8 「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」
6:9 「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」
  多くの人が、自己中心に生きていた中にあって、「ノアは、主の心にかなっていた。」というのです。自己中心とは、神様よりも自分を上に置くと言うことです。と言うことは、神の言葉に聞き従うと言うことは必要ないのです。つまり神様とのコミュニケーションの断絶です。ですから、「神のお心」を知ることが出来ない、いえ、知ろうともしないのです。
  しかし「ノアは神とともに歩んだ。」のです。ですから、神様の言葉に聞き従うことが出来たのです。
  神様のお心は、決して人が滅びることを望んではいません。今も神様は「心を傷め」ておられるのです。その心を私たちにお示しになったのが,イエス様なのです。イエス様の十字架が神様の心の痛みを現しているのです。
  そして神様は言われるのです。「あなたはわたしの宝だ」と。
「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。」(申命記7:6)
  ひとりの男の子がお父さんに聞きました。「お父さん、僕のこと好き?」お父さんは、その子をしっかりと抱きしめ,そして言いました。「君はお父さんの宝ものさ」と。
  神様もあなたを抱きしめて言われるのです。「あなたはわたしの宝だ」と。