牧師室'14.6


◎ 2014.6 ◎

「神と共にあるしあわせ」

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。
私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。
(旧約聖書 詩篇 73:28)



  「しあわせなら手を叩こう・・・しあわせなら態度で示そうよ・・・」 私たちが「しあわせだな〜〜」って感じる時、あるいは感じる事って、どんな時、どんな事でしょう?
  今日の聖書の詩篇73篇の表題に「アサフの賛歌」とあります。アサフはダビデによって任命された(歴代誌第一25:1〜2)楽人です。「竪琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。」とあります。
  その1節に「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。」とあります。「心のきよい人」とは、神を敬い、日毎に神を礼拝し、神と交わり、そのことを喜びとしている人のことです。
  しかし、神の民イスラエルの中にも、神を敬わず、礼拝もうわべだけ、心のこもらない儀式としての礼拝に陥ってしまい、富と快楽にふけっている。そうした人々に対する嘆きが3節以降に記されています。
  けれどもそれは人ごとではない。2節に「しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。」と、自分自身もそうした人々の中で、信仰が揺らいでしまった。と正直に告白するんです。そしてそんな自分を反省し悔い改めるのです。13節です。「確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。」「むなしく心をきよめ、」とは、自分自身の信仰も、儀式的でうわべだけのものになっていた事への悔い改めです。
  私たち、いえ私自身そうした状況に陥らないとは、保証できない。回りのことに心奪われると、聖書を読んでも、御言葉が響いてこない。祈っていても心がこもらない、祈っていたのにいつの間にか、他のことを考えていたりする。礼拝も喜びではなく、義務的になってしまう。つまり、神様との正しい交わりが損なわれてしまっているんです。でも、私たちは自分の力で何とかしようと思っても、私たちのうちにはその力がないのです。神さまに真正面から向かい合わない限り、アサフが告白しているように「むなしく心をきよめ」なければ、という、悔い改めに導かれる事はできないのです。
  けれども、もっと大切な事は、そうした状況に陥らないためにはどうしたら良いかと言うことです。
  23節にこう記されています。「しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。」
    つまり、私たちが弱い存在である事を神様は一番よく知っていて下さるのです。ですから、「わたしはあなたと共にいる」と約束して下さったイエス様が、私の手をしっかり捕まえていて下さると言うことを私たちも信仰を持ってしっかりと御言葉を握りしめることです。
  子どもが、一人歩きし始めると、自分はもう大丈夫、一人で歩けると、親の手をふりほどこうとします。でもこういう時が一番危険なんです。ですから、親は、危険から守るために手を差し伸べるのです。
  でも、なんか煩わしく思うことがあるんです。くどいようですが、そういう時が、信仰の危機だと言うことです。聖書、いや読まなくても知ってる。祈り、いや祈らなくても大丈夫。礼拝、今日ぐらい休んでも・・・、等々。つまり神様に心が向いていないのです。
  アサフは言うんです。「73:25 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。73:26この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」
  私たちをこの様な信仰に日々導いて下さるのは、助け主なる聖霊様です。
  私たちが弱いことを知っておられる神様は、そんな私たちを助けるために、助け主なる聖霊様をお遣わしになったのです。
  「教会に来ることが一番の楽しみです」と仰って下さる、なんと素敵なことでしょう。こうして教会における交わりの中に、確かに主はおられるのです。
  「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」(73:28)ジョン・ウェスレーの最期の言葉とも言われています。
  私も、この様な信仰の喜びをもって生涯を全うしたいと思います。