牧師室'14.4


◎ 2014.4 ◎

「わたしは、それです。」

14:61・・・大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
14:62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」  (新約聖書 マルコの福音書 14:60〜64)



  新しい年度を迎え、様々な出発をされた多くの人々。前途に祝福があるようにと祈る者です。
  さて、新しいことが始まる時には、ある種の期待と共に不安もまたあるものです。
  しかし、不安におののくのではなく、自らが目指す目標に向かって、希望を持って一歩を踏み出すのです。それが、新しい門出です。
  今年は、あの東北大震災と原発事故以来、3年振りに大手企業が、新入社員を採用したとのニュースを見ました。そのニュースによりますと、彼らはバブル崩壊後に成長して来た世代だということです。よく、「今の若者は」と言いますが、しかし、この若者たちに、私たちは日本の将来を託さねばならないのです。彼らを支え、励まし、将来に夢を持てるようにするのが私たち大人の責任なのです。彼らに担わされた日本の将来には何が待ちかまえているのでしょうか。彼らもまた、きっと、将来に希望と期待と、幾ばくかの不安を持ってスタートしたことでしょう。でも、私にはちょっと気になることがあるのです。日本の今を指導して行く政治政策が、経済成長最優先という目先のことに目が向けられ、強いてはそれが、他者との強調が失われ、自分たちさえ、日本さえ裕福であれば、という方向へと向かって行くのではないだろうかと。何か大切な部分が置き去りにされているような気がしてなりません。それが私の取り越し苦労であれば良いのですが。
  そんな風に思い始めると、日本の未来に希望が見えて来ないのです。気持ちが塞いでしまうように思います。でも、それが、サタンの常套手段なのです。なんとかして私たちを落ち込ませ、神様に信頼する道を塞ごうとするのです。それを世間では、閉塞感などと呼ぶのです。
  私たちは、サタンに負けてはいけないのです。「恐れてはいけない。わたしは既に世に勝っている」。と言われる主イエス様が共いてくださるのですから。
  そのように、私たちの希望は、イエス様のうちにあるのです。すなわち、御ことばに信頼することです。
  今、私たちは受難節を過ごしています。そこで、今一度、新たにイエス様が私たちのために何をしてくださったのかを思い起こしたいと思うのです。
  イエス様は、共に歩んだ弟子たちに捨てられ、異邦人の手によって捕らえられた後、大祭司のところに連れて行かれ、祭司長、長老、律法学者たちが集まっている前に引き出されました。
  彼らの腹の中は、「何としてでもイエス様を死刑にしなければ」という思いでいっぱいでした。「・・祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。」(マルコ14:1)。裁判にかける前からイエス様を、死刑にすることを決めていたのです。そのために偽りの証人が立てられました。しかし、イエス様は何の弁明もなさらず、黙って聞いていました。大祭司が、「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」と尋ねましたが、イエス様は黙ったままでした。しかし、大祭司は更にこう尋ねました。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」と。するとそれまでは、どんなに不利な証言に対しても、一言も口を開かなかったイエス様が、はっきりと言われました。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(62)と。イエス様が「わたしは、それです。」とお答えになったのは、すなわち「わたしは、メシヤ、神の約束のキリスト、救い主である」という、まさに福音の宣言なのです。 イエス様はその他にも、「わたしは・・・です」と言われたことを思い起こします。「わたしは、世の光です。良い羊飼いです。門です。道であり真理でありいのちです。」と。私たちの信頼すべきは、その命をもって救いを成し遂げてくださり、今も約束のうちに私たちを導いてくださっているイエス様ご自身です。ですから、そのお言葉にこそ希望があるのです。
  現実の世界は、なかなか厳しいものがありますが、私たちには、決して失われることがない希望があるのです。「わたしは、それです。」と 言われたイエス様。そして十字架の上で血を流し、救いの道を示し、真理であられ、永遠のいのちを約束してくださった、愛なるイエス様こそ、私たちの希望なのです。それは、ただ恵みによるのです。
  「罪に満てる世界 そこに住む世人に
    『生命得よ』とイエスは 血潮流しませり
       ああ恵み 計り知れぬ恵み、
         ああ恵み 我にさえ及べり」(新聖歌343)
  「今あるはただ恵みによるのです。」
  主の御名を賛美致します。