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イエス様は、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、ご自分は、祈るためにひとり山に登られました。 弟子たちを乗せた舟は、向かい風のためなかなか前に進みません。 時は夜中の三時頃、何者かが舟に向かって歩いて来ます。弟子たちは恐ろしさの余り「幽霊だ」と叫びます。するとイエス様はすぐに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。この話の続きは、マタイの福音書14章28節以下を、是非お読み下さい。 ところで、舟と言えば思い出す歌があります。 「船頭さん」 村の渡しの 船頭さんは ことし六十の」おじいさん 年はとっても お船をこぐ時は 元気一ぱい ろがしなる ソレ ギッチラ ギッチラ ギッチラコ (作詞:武内俊子 作曲:河村光陽) 「今年六十のお爺さん」長年に亘って舟をこぎ続けてきたのでしょう。でもこの歌詞の響きからすると、六十って言うと、凄い「お爺さん」って感じがしませんか? でも、向かい風が吹く中、いっそう漕ぐ腕にも力が入り、舟を操る艪がしなっている、そんな光景が目に浮かびます。 ところで、ペテロ達はもっと若い漁師でしたでしょう。それでも向かい風に悩まされ、なかなか前へ進むことが出来ません。23節を見ますと「夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」とあります。イエス様は群衆を解散させた後、山に登って祈っておられました。そして「夕方になった」とありますから、弟子たちが舟に乗って湖に出たのは推測するに、午後の2時か3時頃ではなかったかと思うのです。そして25節には、夜中の3時頃とありますから、もう漕ぐ手にも力が入らず、成り行きに任せるしかないと半ばあきらめかけていたその時です。 イエス様が湖の上を歩いて来られたのです。ペテロ達にとっては、思いも及ばない出来事でした。恐ろしさの余り「幽霊だ」と叫んだのも当然と言えるでしょう。 「人生の海の嵐に もまれ来しこの身も 不思議なる神の手により 命拾いしぬ いと静けき港に着き われは今安ろう 救い主イエスの手にある 身はいとも安し」 (新聖歌248) さて、私たちにとって本当の平安とは何でしょうか?それは、賛美の中に歌われていますように、「救い主イエスの手にある」と言う事です。 |
ペテロは、湖の上を歩いて来られたのがイエス様だとわかると、「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(14:28)と言いました。するとイエス様は「来なさい」(14:29)と言われます。ペテロは、恐る恐る水の上に足を降ろし歩き始めましたが、風を見て、怖くなり、沈み掛けたのです。「主よ。助けて下さい。」と叫ぶペテロの手をつかんで「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(14:31)と仰ったのです。 「すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに 死を待つは誰ぞただちに 逃げ込め港に いと静けき港に着き われは今安ろう 救い主イエスの手にある 身はいとも安し」 (新聖歌248-3節) イエス様は私の手を握って仰るのです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」とすぐに手を差し伸べ握って下さるのです。 このところで気付かされるのは、 イエス様が「信仰の薄い人だな。 なぜ疑うのか。」と仰ったお言葉です。決してしかりつけるような口調ではありません。イエス様の憐れみに富んだお心が伝わって来ませんか? いえむしろ、私は主の前にはいつもその様な、信仰の薄い、弱い存在に過ぎません。救いの恵みに与り今日まで「主よ。お助け下さい。」と何度叫んだことでしょうか。 でもその度に、主は御手を伸べ握りしめて、沈み掛ける私を引き上げて下さいました。何度命拾いしたことでしょう。 私たちの人生、避けがたい嵐に遭遇することがあるのです。大なり小なり経験済みです。 くしくも今日は、あれから丁度三年目です。2011年3月11日、忘れようにも忘れられないあの光景に、遠く離れた熊本の地にあっては、「主よ。助けて下さい。」と叫ぶ事しか出来なかったのです。 あれから3年、今なお2600人以上の方が行方不明なのです。避難生活を余儀なくされている方々は何と26万7千人もおられるというのです。 口で言うほど簡単でないことは重々承知の上ですが、それでも「主よ。助けて下さい。」と叫ばざるを得ません。そして、「しっかりしなさい。わたしだ.恐れることはない。」とのみ言葉に信頼し祈り続けるのです。 「いと静けき港に着き われは今安ろう」 主の平安を祈りましょう。 |