牧師室'13.12


◎ 2013.12 ◎
「救いを見た」

私の目が
あなたの御救いを
見たからです。

(新約聖書 ルカの福音書 2:30)


  メリー・クリスマス。
  クリスマスのお祝いを申しあげます。
  み子の生まれし ハレルヤ!
  この朝うれし ハレルヤ!
  うえなくたかき ハレルヤ!
  きみをたたえよ ハレルヤ!
        (讃美歌99)
  私たちにとって、約束を信じて待つ、と言う事はそうたやすい事ではありません。二・三日なら・・・それが、1年・2年・10年・20年・・・。もう忍耐の限界です。
  しかし、アブラハム、イサク、ヤコブ、から始まって今日に至るまで、イスラエルの人々は何千年と神様の約束の言葉を信じ、待ち望みつつその歴史を歩んでいるのです。
  さて読んで頂きましたルカの福音書2章に登場して参りました、シメオンという人ですが、彼についてこう記されています。 「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」(2:25)と。そして彼は、神様から一つの約束を与えられていたのです。
 それは26節です。「また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。」(2:26)と。シメオンはこのお告げをいつ受けたのか,どのくらい待ち続けていたのかは記されていませんので分かりませんが、5年や10年ではなかったのではと思うのです。
  それは、シメオン自身の言葉の中から推測する事が出来ます。彼はこう言っています。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」(2:29)と。「今こそ、・・・安らかに」と言う言葉の中に、長い間、待ち焦がれていた心を察する事が出来るのではないでしょうか。神様からの約束はいつ実現するのか、随分年も進み死と言う事を意識する程の年になっていたのでしょう。
  このシメオンの姿から、信仰とは,神様のお言葉に信頼し待ち望みつつ、今の時を生きると言う事なのだと教えられます。
  そして、シメオンは,「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。」(2:25)とありますが、それは,神様の約束のメシヤ・救い主の到来を待ち望んでいた、と言う事に他なりません。しかもそれは、自分のためだけではなく、ましてやイスラエルのためだけでもありませんでした。
  
  シメオンはこう言います。
  「30私の目があなたの御救いを見たからです。31御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、32異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(2:30〜32)と。幼子イエス様の内に、神様の救いの約束,イスラエルと、全世界の慰められるのを見たのです。
  このように、私たちの信仰のよって立つところは、父なる神様の約束を成就するために,神である事を止めて人として、メシヤ・救い主として世に来てくださった神の独り子、すなわちイエス様を信じる信仰以外にはありません。
  ですから、私たちは毎年毎年、世の救い主としてお生まれになったイエス様のお誕生を感謝を持ってお祝いするのです。と同時に再び来られるイエス様を待ち望むのです。
  シメオンがイエス様にお出会いした時に「御救いを見た」と言いましたが、この時はまだ救いの御業は完成していませんでした。信仰は、恵みの先取りとも言えます。布にくるまって、母マリヤの胸に抱かれ,スヤスヤと寝ている幼子イエス様は、私たちを罪から救う為に,十字架への道を歩まれたのです。
  シメオンは、そのことをも神様から啓示を受けていました。
  両親を祝福したすぐ後に、「34ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」(2:34〜35)と。私たちに対する神様の祝福は、イエス様の、十字架と復活と言う、茨の道を通して与えられたのだと言う事です。
  シメオンの祝福を通して、更に教えられる事は、「祝福とは」神様のみこころがなるように、と言う信仰の祈りでもあると言う事です。そして私たちもその様な一人とされているのです。
 クリスチャンは,祝福を祈る人々の集まりです。「天に栄光、地に平和。」「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。」(マタイ6:10)と。アーメン