牧師室'13.11


◎ 2013.11 ◎
「心配無用」

だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。

(新約聖書 マタイの福音書 6:34)


  めっきり寒くなって来ましたが、お変わりなくお過ごしのことと思います。
  さて、お開き頂きました、マタイの福音書5章〜7章は有名な山上の説教、といわれている箇所です。
  その最初のところ(5:3〜11)で、9福の教え・あるいは至福の教えが記されています。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」から始まる、九つの『幸い』が記されています。
  しかし、中でも、『心の貧しい者、悲しんでいる者、義に飢え渇いている者、迫害されている者、ののしられたり、悪口雑言を言われたりするとき』、等はおおよそ『幸い』とは結びつきません。むしろこうした状況は『不幸』と思われます。
  例えば、心の貧しいと思われる人、悲しんでいる人、義に飢え渇いている人、迫害されている人、
  ののしられ、悪口を言われて、怒りの中にある人に、「あなたは幸いな人ですね」などと言ったら、おそらく「馬鹿にするな」と怒鳴られそうですよね。
  けれども、こうした状況は、私も含めて多くの人が、日常茶飯事経験している事ではないでしょうか。何をしても上手くいかない。自分は役立たずダメ人間だと自らを卑下してしまう。これって心が貧しくなることです。悲しい出来事は後を絶ちません。良いことをしようと思っても、勇気がない。逆に人を困らせるようなことばかり、これは、義に飢え渇いている人です。いじめ、虐待は、迫害です。
  イエス様はそうした私達の現実をよくご存じなのです。そうした現実の世界は、闇が支配していると言えます。闇それはサタンの働きです。
  しかし、その様な暗闇に光をもたらすためにイエス様は世に来られたのです。
 この9福の教えの中に「柔和な者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和を造る者」は『幸いです。』とあります。私達人間は元々、神様のかたちに似せて造られた者ですから、この様な素晴らしい性質が備えられているのです。しかし、サタンの支配する暗闇の世界においてその性質を100セント発揮することは難しいのです。そのことを十分にご存じであられるイエス様は、その暗闇の中で、あえてあなたがたは輝くのだと仰るのです。「あなたがたは地の塩です。・・・あなたがたは世の光です。」(5:13〜14)と。
  
     時間の関係で、中を飛ばしますが、そのように地の塩、世の光として生きるために必要な事は、神様の近くにあることだと、祈るべきことを教えられたのです(6:5〜13)。その中心が主の祈り(6:9〜13)です。たらすためにイエス様は世に来られたのです。
  そして、更にイエス様は譬え話をもって、父なる神様がどれ程私達を愛し、心に掛けていて下さっているのかをお示しになりました。つまり神様が私達のことを心配していてくださると言うことです。
  「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは鳥よりも、もっとすぐれた者ではありませんか。」(6:26)と。
  また、「野の百合がどうして育つのか、よくわきまえなさい。・・・」(6:28)と。空の鳥や野の百合よりもあなたがたはまさった者ではないか。「なぜ心配するのか」と主は仰るのです。
  確かに現実は、困難な状況が周りにはあり過ぎるくらいあります。
  しかしそうした中にも『幸い』を見出すことができると、世の光として来られ、命をさえ惜しまずささげ尽くしてくださったイエス様は仰るのです。
  私達の痛み、苦しみ、悲しみ、病さえも背負って十字架の死を遂げてくださったイエス様は、甦られたのです。暗闇を打ち破られたのです。イエス様が語られた9福の教えは、十字架と復活によって確かなものとなったのです。
  今、悲しんでいますか?でも「大丈夫」と主イエス様は仰るのです。
 『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』(6:34)
  そのように仰って下さるイエス様が、いつも共にいてくださると約束して下さっているのですから、『心配は無用』なのです。