|
「秋深き隣な何をする人ぞ」(正岡子規) 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」(松尾芭蕉) 秋と言えば何か物静かな、しっとりとした感じがする季節ではないかと思います。 夜が明け始める柔らかな光の下、ひんやりとした空気に包まれ、静まって、ゆっくりと聖書を読み祈る。最高の祝福の時ではないでしょうか。 「するか、しないか、それが問題だ」「読書の秋」でもありますので、そんな時間を持つことができたらな〜〜と思う今日この頃です。 さて、読んで頂きました詩篇115には、三様に呼ばれる人々がおります。 一つは「イスラエルの家」です。これは、神に選ばれた特別な民「選民」と言われる人々です。 二つ目は「アロンの家」です。これはイスラエルの中でも更に選ばれた祭司の家、すなわちイスラエルの指導者たちです。 そして三つ目は「主を恐れる者」です。言わば一般民衆です。 神様は、あのアブラハムを立てて(創世記12章以下)神様の選びの民イスラエルを興されました。その目的は、「全ての国民の父となる」ためであり、「祝福の基」となることでした。その後モーセを立てて、イスラエルの民を奴隷の地エジプトから導き出された神様は、 「20:3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」(出エジプト記)と言われました。 しかし、彼らは神様の期待に背き、神ならぬものを神とする愚かさを繰り返し、結果、神様に捨てられ、国を失い、流浪の民として歩み続けることになりました。 けれども神様は決して彼らを全く見捨て、滅ぼしてしまおうとはされませんでした。 詩篇は、紀元前400年頃までにまとめられたと言われています。その中身は、古いものはモーセの時代まで遡るのです。そうした長い長い神様の歴史の中で歌われ、受け継がれてきたのが詩篇です。 流浪の民となったイスラエルでしたが、神の御言葉に信頼し、主の約束を待ち望む信仰は、歌と共に受け継がれてきたのです。 しかし、周り人々は、「彼らの神は、いったいどこにいるのか」(115:2)と馬鹿にするのです。 |
でも彼らは断言するのです。「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。」(115:3)と。 私たちの信仰生活に於いても、時々耳にするのです。「愛の神ならどうしてこんな悲惨なことが・・」と。答えは出ません。それでも、詩篇の記者は言うのです。イスラエルの家よ、・・アロンの家よ、・・・主を恐れる者たちよ、主に信頼せよ。」(9〜11)と。これは私たちに対する慰めと励ましの言葉です。イスラエルの家、アロンの家、主を恐れる者とは、私たちのことです。神の選びによって(恵みによって)神の子とされ、人々に祝福をもたらす者とされ、主を待ち望む者とされている私たちは皆、神の祝福の中に歩む者とされているのです。 神は、神様に背を向けたものをも完全にはお見捨てにはならないで、むしろ帰るべき道を備えて下さっているのです。 私たちにとってはそれが、「道であり、真理であり、命である」と言われた、イエス様です。 神がイスラエルの民を通して「主はわれらを心に留められた」と証されたことを、今、イエス様を通してこの時も全ての人に対してなし続けていて下さるのです。 だからこそ今の私があるのです。 人はすぐに忘れます。けれども「天と地を造られた方」(15)は、決してお忘れにはなりません。アブラハムの時代、モーセの時代、詩篇の記者たちの時代、そして今も、同じ約束の神様が「私たちを心に留めて」いて下さるのです。 2020年東京オリンピック開催が決定しました。確かに嬉しいことではあります。でも、聞いて下さい。あの東北の大震災で、家も家族も仕事も全てを失った人々、原発事故で家を失い、土地を失い、町を失った人々の声。「私たちを忘れないで」を。それは「心に留めてください」と言うことです。 でも大丈夫です。だれ一人神様はお見捨てにはなりません。十字架の上で命をかけて愛して下さった主イエス様「あなたを捨てて孤児とはしない」と約束して下さいました。 イスラエルよ。主に信頼せよ。 アロンの家よ。主に信頼せよ。 主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。 |