牧師室'13.6


◎ 2013.6 ◎
「祈りの手を上げ」

モーセが手を上げているときは、
イスラエルが優勢になり、
手を降ろしているときは、
アマレクが優勢になった。
(旧約聖書 出エジプト記17:11)


  今日の聖書の箇所は、出エジプトでの出来事です。イスラエルの人々は、430年(出12:40)の間、エジプトの奴隷でした。けれども神様はイスラエルの人々の叫びを聞かれ、モーセを選び出し指導者として遣わすのです。
  出エジプト記3章7節に。『主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。』と。そしてエジプト脱出物語が始まります。神様が事を実行するために召し出された時、モーセ80歳、アロン83歳(7:7)でした。脱出時、民の数は、成人男性だけで約60万人(12:37)と聖書は記しています。
  80歳を超えてのこの働きは、並大抵のことではありませんでした。『わたしがあなたとともにいる。・・・私があなたを遣わすのだ。・・・』との神の約束無しには、踏み出すことさえ出来なかったに違いありません。前は海、後ろからは追いすがるエジプトの軍隊。恐れおののいている民を叱咤激励し、二つに分かれた海を渡り、脱出成功に見えたのも束の間、腹が減った、喉が渇いたと不平不満をぶちまける民。大変な旅の始まりとなりました。それだけではありません。彼等が通り過ぎようとする国の人々は、突然やって来たイスラエルの人々を恐れ、闘いを挑んで来るのです。それが今回の箇所です。
 アマレク人がやって来て、闘いになった。流石のモーセも、直接闘いに参加することは無理と判断し、モーセの後を継ぐ若き勇者ヨシュアに託して、モーセは、兄のアロンとフルを連れ三人で丘の頂きに登ったのです。
  なんのために、それは祈るためでした。17章11節に「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。」とあります。
  「手を上げる」という行為は、祝福し、神様をほめたたえると共に祈りの姿勢を表しています。詩篇63:4「それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。」また、Tテモ2:8「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」と。
  さて、モーセは直接戦うことは出来ない、けれども自分に出来る事、すべき事は何かを知っていました。それは、神への祈りを献げることでした。私たちの信仰の歩みの中でも、自分のすべき事、出来る事に心を向けると言うことは、正に祝福です。
  『いや、もう私は○○だから、』という前に、自分には何が出来るだろうか?と心を前に向けることは大事なことではないでしょうか。
  モーセは80歳を過ぎていました。そして、モーセには二人の支え手がいました。共に祈り支え合うことの麗しい姿を、そして一緒に祈る大切さを見せていただきました。さて、一緒に行ったアロンは83歳でした。もうひとりのフルは、一説ではミリヤムの夫であろうと言われています。ミリヤムはアロンの姉(出15:20)とありますので、フルも80歳を越えていたでしょう。80歳トリオです。
  私はここを読みながら、非常に大きな励ましと同時に、チャレンジを受けました。励ましと言いますのは、この熊本教会にも80歳を越えた方々が大勢おられます。そして私に声をかけて下さるのです。『お祈りしていますね。それしか出来ませんが・・・。』トンでもないことで御座います。それが何よりの励ましであり支えとなって下さっているのですから、感謝あるのみです。チャレンジと言いますのは、私もそのように『祈りの手を上げ』続ける者であり、支える者でありたい、いえ!そうでなければと思わされたことです。
  そうです。80歳を超えても、なすべきことはあるんですね!共に『祈りの手を上げ』続けましょう。お互いの祝福のために!