牧師室'13.5


◎ 2013. 5 ◎
「私、しあわせです」

苦しみに会ったことは、
私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
(旧約聖書 詩篇119:71)


  テレビのコマーシャルです。あるご婦人が、足腰の痛みに悩んでいたが、某サプリメント(栄養補助食品)のお陰で、痛みがすっかり取れ、階段の上り下りも楽々。「とっても幸せです」。悩まされていた痛みから解放されたのですから「とっても幸せ」と感じるのは、至極当然の事と思います。
  そこで質問です。あなたにとって幸せと思うのは、次のどれでしょうか?
@過去に自分がもったことのある幸せ(もう一度・・・)
A現在自分のもっている幸せ
B将来得られるといいなぁと思う幸せ(願望)
C自分には得ることのできないと思う幸せ(でも欲しいな〜〜)
  十人十色それぞれ色々な思いがあるでしょうが、現在自分の持っている幸せを、幸せとして感謝することが出来なくては、たとえどんなにすばらしいものを手に入れたとしても、本当に幸せだと感じることは出来ないのではないでしょうか。
  ある村が飢饉に襲われ、人々は、飢えのために苦しい日々を過ごしていました。この村の領主様はとても慈悲深いお方で、倉庫に蓄えてあった米を村人に分け与えました。飢饉は長引き、領主様の倉庫の米も底をつき、事態は深刻。そこで領主様は、自分の財産を売り払い、他の村から米を買い入れ、村人に分け与えました。
  ようやく飢饉も去り、村人は再び汗水流し、畑を耕しました。その年は、思いの外豊作でした。けれども領主様は、その米を買い付ける資金がありません。蓄えた米も財産もすべてを失ってしまいましたから。けれども領主様はこう言いました。
 「いいえ、私は何も失ってはいません。村人は私にとって何にも代えがたい宝です。」と。やがて刈り入れを迎えた村人たちは、それぞれ収穫の半分を、領主様に差し出しました。「ああ、私はすべての物を失ったが、すばらしい人々を得ることが出来た。」話はこれで終わりません。この事が国の王様に伝えられると、それを聞いた王様はいたく感心し、彼に倍の領地を与えたのです。
  随分前置きが長くなってしまいましたが、詩篇の記者はこう言うのです。
 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」と。
  ここで「苦しみに会ったことはしあわせです。」とは言っていません。苦しみの真っ只中にある時に、それをしあわせだとは決して言えないのです。それが結果として、「しあわせでした。」と言えるには、時間が必要なのではないでしょうか。ですから、苦しみの真っ只中にあるある人に、聖書に「苦しみに会ったことは私にとってしあわせでした。」とありますから元気を出してください、と言っても、なんの慰めにもなりません。いえむしろもっと苦しめる事になるかも知れません。
  むしろ、その苦しみを理解してあげようと、その傍らにいてあげる事の方が、どんなに大きな慰めになることでしょうか。そして後に知るのです。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」と。ここに「あなたのおきて」とありますが、この事は「神様のお心」と言うように理解することが出来ます。神様が、「災いではなく、私たちに将来と希望を与える」(エレミヤ29:11)と言われた事を思い起こします。苦しみは決して災いではないのです。共におられる神様は、すべての事を通して、変わることのない将来と希望があることを示して下さっているのです。何よりも私たち自身がそのことを学ぶ事が大切なのです。
  すべてを失ったかのように思える事があるかも知れない、しかしあなたは何も失ってはいないのです。あなたには永遠の将来(永遠の命)と言う希望が約束されているんです。これこそ神様のおきて、神様のお心なのです。ですから私は言えるのです。「私、しあわせです」と。そのように生きるあなたは神様の宝です。