牧師室'13.4


◎ 2013. 4 ◎
「信頼の的」

71:4 わが神よ。私を悪者の手から助け出してください。不正をする者や残虐な者の手からも。
71:5 神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。
71:6 私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。
71:7 私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。
71:8 私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。
                     (旧約聖書 詩篇71:4〜8)


春の小川は、さらさら行くよ。
岸のスミレや、レンゲの花に、
すがたやさしく、色うつくしく、
咲けよ咲けよと、ささやきながら。
  季節ごとに思い出す歌ってあると思うのですが、皆さんが、ふと口ずさむ思い出の歌ってなんですか?
  私の年代ですと、文部省唱歌と言われる音楽の教科書に載っていた歌でしょうかね。その歴史をひもときますと、讃美歌が日本でも歌われるようになったのがきっかけで、いわゆる西洋音楽が小学校唱歌に取り入れられるようになったとの事です。「蛍の光」の曲もその一つです(讃美歌370)。
  このような歌を口ずさむと、何となくほんのりした気持ちになります。幼いときに覚えた歌って、案外忘れないものですよね。ということは、思い出の歌というのはそれだけ大切なものなのですよね。
  そう思うと、幼いときから真の神様に心を向ける讃美歌によって、心が養われることの大切さを思わされます。
  そのような中で、本当に信頼すべきものは何かをつかみ取っていくのではないでしょうか。どうか、そういった意味でも、教会学校の働きのために、子どもたちのために覚えてお祈り頂ければ感謝です。
  さて、私たちの人生に於いて何に「信頼の的」を絞るかは重大な問題です。お金、地位名誉、健康、思想、それも無いよりはあった方が良いですよね。でもどんなに立派な理想を掲げても的が外れていては、台無しです。その最たるものは「平和」ではないでしょうか。
  人間は、どの時代、どの国に於いても、皆それぞれ平和を求めて生きてきたし、生きているのです。ところが現実は、それとは裏腹に、争いが絶えないのです。いえむしろ「平和」の名の下に争いが生じるのです。
  それは何かが間違っているからに他なりません。よく「国益のために」、と言います。
  その裏には、自分の国の益のためなら、他の国を犠牲にしても致し方ない、という的外れな思いが優先してしまうのです。「平和」を求めながら、他者を不幸に陥れる、この「的外れ」こそが「罪」なのです。聖書が「罪」と言う時、それは「的外れ」という意味です。ではその「的」とはなんでしょうか?言うまでもありません「神ご自身」です。
  私たちが、最も大切なのに、最もないがしろにしているのが神の存在なのではないでしょうか。
  旧約の時代に、アブラハム・イサク・ヤコブを通して、神様はその存在を明らかにされました。彼らは、この御方こそ信頼すべき真の神と信じ、従いました。色々な失敗をしながらも、「的=真の神」を見失うことはなかったのです。 しかし、私たちはこの真の神を生まれながらにして知ることはありません。的外れで、罪の中にあった、そんな私たちを憐れに思い、神様の方からその存在を明らかにして下さったのです。それが、イエス・キリスト様です。
  お開き頂いた詩篇71篇は、 「年老いた信仰者の祈り」と言われています。イエス様を救い主として信じたのがいつかは、問題ではありません。なぜなら、すべての人は、生まれたときから神にいだかれているのです(6節前半)。ただそれに気付いていないだけなのです。けれども、イエス・キリスト様に出会い、罪の赦しと永遠の命の希望を約束して下さっていることを信じ受け入れることによって、神様が悪者(サタン)の手より助け出して下さいました(4節)。
  そして、生きる望みを与えて下さっていることを感謝し、この御方に信頼し歩む平安が与えられていることを喜び、主に向かって賛美を献げるのです(6節後半)。   これこそ「的を射た」すなわち「罪から解放」された人生なのです。そして、この詩篇の記者が言っているように、このような私が真の神に信頼し、今日の日を生かされていると言うこと、これこそ真の奇蹟なのです。この事を感謝し、喜びの賛美をもって主に栄光を帰しつつ、歩んで行きましょう。