牧師室'13. 3


◎ 2013. 3 ◎
「わずかを知る」

人がもし、何かを知っていると思ったら、
その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 8:2)


  「知らざるを知らざると為せ。これ知るなり」(論語)。   あるとき、孔子が弟子の子路に『汝にこれを知るを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。これ知るなり。』と言った。解説によりますと、「それは他でもない。知っていることは知っている。知らないことは知らないと、その限界をはっきりと認識すること、それが知ることなのだ。」と。
    孔子は、紀元前5世紀頃の中国の思想家ですが、パウロ先生が孔子のこの言葉を知っていたとは思え無いのですが、知恵に長けた人は同じような考えに行き着くのでしょうか。
  『人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。』多少ニュアンスは違いますが、意味としては同じように理解することが出来ると思います。
  シメオン会(70歳以上の方の交わり会)では、時々『ペーパーテスト』があります。漢字の読み書き等です。最近テレビコマーシャルで、女の子がある看板を見て小豆島(あずきじま)と言うと、近くにいた子どもが小豆島(しょうどじまや)とささやきます。人ごとではありません。日本人でありながら、知らない漢字の何と多いこと。まさに『知らなければならないほどのことも知ってはいない』私です。
    ところで、パウロ先生はコリントの人々に何が言いたかったのでしょう。1節を見ますと、「偶像にささげた肉についてですが・・・」と言っています。
  そもそも、父なる神以外に神などいないのだから、偶像にささげた肉を食べても良いとか悪いとか言うこと自体がナンセンス・意味が無い、と言っているのです。
  「私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。」(8:8) つまり、イエス・キリスト様を信じる者はこの事を知らなければならないのです。
  ところが、偶像にささげられた肉が汚れているから食べてはいけないという人は、あたかも別の神が存在しているかのような思い違いをしているのではないか、そんなことは決して無い。
  8章の6節を見ますと「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」とパウロ先生は言うのです。ですから、偶像にささげられた物だからと言って、それ自体が汚れた物なのではないのです。
  私たちは、その様な事はよく知っています。ですからパウロ先生が言うように、食べようが食べまいがそれは、わたし自身の自由であり、誰からも後ろ指をさされるような問題ではないのです。けれども、そうした知識の無い人々は、偶像にささげた肉を食べると汚れると思い込んでいるので、そのような物を食べているクリスチャンを見て、つまずく事になる。だから、そうした弱い人たちのつまずきとならないためには、食べない方が良いと言うのです。それが神様に愛されている者として他者を思いやり、愛する心なのではないでしょうか。
  自分の権利を振りかざすと、人を傷つけることが多いのです。イエス様に出会う前のパウロ先生は正に、自分の権利を振りかざし、人に恐れられる存在でした。けれども救い主なるイエス様にお出会いし、今まで持っていた権利、知識や富も、塵芥(ちりあくた)のような物だと、一切を捨ててイエス様に従ったのです。何よりも「わたしは神様に知られ、愛されている」と言うことを知ったのです。
  赦され、愛されそして生かされている喜びを知ったパウロ先生は、この一点「わずかを知る」事こそ、最大の祝福を手に入れる道であることに他ならないと示しているのです。主イエス様の御名をあがめましょう。