牧師室'13. 2


◎ 2013. 2 ◎
「救いを楽しむ」

主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。
あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。 セラ
(旧約聖書 詩篇21:1〜2)


  先日(2月11日・信教の自由を守る日)は一日とてもよいお天気でした。外を歩いているうちに、「春は和みの風の寒さや」という言葉がふと頭に浮かびました。しばらく考えてみましたが、その後が思い出せません。家に帰ってパソコンで調べてみましたら、大正時代に作られた、そう、そう「早春賦」という歌の出だしでした。しかもそれは、「春は和みの風の寒さや」ではなく、「春は名のみの風の寒さや」でした。作詞:吉丸 一昌  作曲:中田 章
   春は名のみの 風の寒さや
    谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど
     時にあらずと 声も立てず
      時にあらずと 声も立てず
  最近学校では、こうした日本の旧き良き時代の歌は、歌われなくなってしまったようですね。何となく寂しい思いがします。
  それはそれとして、こうした日常の生活の中に、ふと思い出される懐かしい歌や出来事は、私たちの心を和ませてくれます。 ですから、多くの人との出会いや、できるだけ多くの本や、芸術(絵・音楽……)に触れることはそれだけ人の心を豊かにしてくれるのではないかと思います。けれども私たちにとって最も大切な出会いは聖書ですね。それはとりも直さず、イエス・キリスト様との出会いです。
  聖書は神様の言葉であり、人間の最も深いところ、魂に触れる「救い」の出来事が、神様ご自身によって語られている書物です。「救い」それは言うまでも無く「罪の赦し」です。イエス様との出会い無しに罪の赦し、すなわち救いはありません。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 (使徒の働き4: 12)
  けれども、3000年も前に、神様に出会ったダビデにとっても、今こうして時を超え、聖書を通して語りかける神様の言葉に触れる私たちにとっても、「救いの出来事」は少しも変わりはありません。
主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。(詩篇21:1)
  ダビデは神に選ばれ油注がれた王でしたが、大きな罪を犯してしまいました。けれども、悔い改め、神様の前にひれふしたダビデを、神様は赦し、祝福をお与えになりました。
  ダビデに対して救いの喜びを与えられた神様は、今この時、全ての人にその同じ喜びを与えて下さっているのです。 あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。 セラ(詩篇21:2)
  パウロ先生は「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ書10:10 )と聖霊様の導きの中で書き記しました。
  私も「イエス様こそ私の救い主」と信じ、告白して救われました。もし、「どうして救われたと分かるのか」と聞かれたら、イエス様がその様に宣言して下さっていますし、そのことの故に、ダビデ王が歌ったように、喜びがあり、楽しみがあるからです。
  今もこうして、これを読んで下さる皆さんと共に、喜びを分かち合い、楽しい時が与えられている、まさに聖書が語っているとおりです。
  辛い時や、悲しい時もあります。でも、それで救いの喜び、楽しみが失われることは決してありません。
  イエス様が湖の上を歩いているのを見て、ペテロは私にも・・・と、船から出て歩き始めましたが、風を見て恐ろしくなり、沈みかけ「主よ。助けて下さい。」と叫ぶと、イエス様はすぐに手を伸ばし、ペテロをつかんで下さいました。
  たとえ沈みそうになったとしても「恐れるな」と言って私の手を握って下さるイエス様は、十字架に架けられ死なれたけれども、三日目に甦られた今も生きて共にいて下さる、永遠なるお方です。
  ですから、今この時、与えられた救いの恵みの中を、喜び、楽しみつつ共に励まし合っていこうではありませんか。祝福がありますように。