牧師室'13. 1


◎ 2013. 1 ◎
「年を重ねてもなお」

ヨシュアは年を重ねて老人になった。
主は彼に仰せられた。
「あなたは年を重ね、老人になったが、
まだ占領すべき地がたくさん残っている。・・」
(旧約聖書 ヨシュア記13:1)


  迎えました2013年、もう半月を過ぎましたが、改めまして、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
  さて、私の若かりし頃は、もう少し時間に余裕があったように思うのです。それは、時代が変わったと言えばそれまでですが、兎に角「早く、早く」と毎日毎日せき立てられているような生活の中で、どこかで立ち止まって自らを省みる事って、とても大事なことだと、最近特に思わされております。
  実は昨日(14日)午前9時頃、76歳になるという方から、突然電話があり、身の上話を始められました。「生い立ち・進学・就職・挫折・再就職・結婚・病(脳梗塞・癌)との闘い、けれども今は、二人の孫に恵まれ、日々平穏に過ごしている。」と。ちょっと疲れて、時計を見ると、なんと四十分。一方的に話し続ける。そして最後にこう言われました。「新しい年を迎えて、76年の人生を振り返って見ると、自分の力で生きてきたように思っていたが、いや、生かされてきたんだと思った。そう思ったら、誰かに聞いて欲しくて、電話帳を開いたら、熊本ナザレン教会が目に止まり電話をしました。聞いてくださってありがとう。ガチャン。」
  「え!!私の話も聞いてよ!」と言う間もなく、ツーツー。
  電話機の表示は「非通知」。私も話したかった。「そうです。私たちは、神様に造られ、」と旧約聖書から始めて「・・・イエス様は十字架の上であなたのために命をお捨てになったのです。あなたはそれほどに愛されて、生かされてきたんですよ。」 四十分はお返しができたのに、残念!!
  おそらく、家族皆がそろって楽しい平穏なお正月を過ごしたのでしょう。中学生・高校生の孫が来て、お年玉をあげ、元気に成長している姿を見て、感無量。一人になった時、孫の姿が自分の過去とダブって、静かに眠っていた記憶が一気に目を覚ましたのでしょうね。
  実は、電話での話の最初はこうでした。「キリスト教では、人間は神に生かされていると教えているんですよね。」
  「はい。そうですよ。」
  「じゃ、聞いていただけますか。聖書は読んだことがありませんが・・」から始まって、76年ですから四十分でも足りないくらいでしょう。
  誰でも、ふと立ち止まって自分の歩んできた人生を顧みる時がある。その時、ある人は「自分はよくここまでやってきた。もう十分」と、自分自身をほめる。一方、電話の方のように、自分の力で生きてきたように思っていたが、そうではない何か自然の力が導いてくれたように思う。その力を、あえて言えば「神」と言えるのだろう、と。<哲学の本は何冊か読んだと言っていた。>と言う事は、自分がこれが神だと思えば、何でも神になってしまうのです。
  今日の聖書の箇所とは関係がないような話になってしまいましたが、偉大な神の人モーセの後継者ヨシュアが、イスラエルの人々を導いてきて、約束の地に定住し、多くの国々を手中に収め、ふと自分自身を見つめた時、「よくここまでやってきた。もう十分だろう。エジプトを出て、紅海を渡り、40年の荒野での生活。モーセの亡き後、今日まで、闘いに明け暮れてきた。もう十分、よくやった、ゆっくりしよう。」と思ったに違いない。ところが、神は、年を重ねて老人になったヨシュアに「あなたは年を重ね老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」と言われたのです。
  私たちも、自分自身を省みる時、立ち止まることは大切なことですが、止まったままではいけないのではないでしょうか。90歳になる姉妹が、「まだまだ、一生学びです。聖書を読んでいます。」と言われました。『年を重ねてもなお』取るべき地はあるのですね。この地とは、『霊的な地』、神様の恵みと言えるのではないでしょうか。この年も皆様の上に神様の祝福が豊かにありますように、お祈り致します。