牧師室'12.12



◎ 2012. 12 ◎

「大切な脇役」

この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。

(新約聖書 ルカの福音書1:27)


  どんな名作映画・ドラマにも、主役とは別に作品を彩る脇役は欠かせません。目立たないけれども、いなくてはならない大切な役割を担ってる名脇役と言われる俳優さんは沢山います。
  テレビドラマ水戸黄門漫遊記、昔からよく見ていますが、水戸の黄門様がどんなにお偉いお方であっても、助さん格さんの存在無しには、引き立ちません。
  「ええい!静まれ、静まれ、この紋所が目に入らぬか」この台詞無しには、このドラマの締めくくりはあり得ない。
  と言うことで脇役の大切さは、どれだけ主役を引き立て、脇役に徹するかと言うことだと思うのです。
  水戸黄門は今日の脇役でして、主役は聖書の話、クリスマスの出来事です。
  ルカの福音書を見てみますと、勿論主役はイエス様ですが、助さん格さんならぬ、マリヤとヨセフという二人の脇役が登場してきます。特にヨセフは、父でありながら実に影の薄い存在です。
  最初にその名が記されているのが、1:27です。
  「この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」ここでも、ヨセフは、マリヤの脇役です。
  そして、かろうじて出身地がダビデの町、ベツレヘムであることが記されています。あとは系図の中に名が記されている(3:23)だけです。

  他の福音書と合わせて見ても、ヨセフが前面に出てくることはありません。ですから、聖書はヨセフを徹底した脇役として登場させています。ヨセフの(心の思いは記されていますが)自ら語った言葉はひと言も記されていないのです。しかし、ヨセフは、大切な大切な役割を担っているのです。
  マタイの福音書によりますと、許婚のマリヤが聖霊によって身ごもったことを御使いが夢に現れて知らせた時、その命じられたとおりにマリヤを妻として迎え、生まれた子にイエスと名付けたのです(マタイ1:18〜25)。
  更には、「エジプトへ逃げなさい。」と主の使いが告げると、素直に従い、妻と子を敵の手から守るのです(マタイ2:13〜15)。
  まことに目立たない、徹底した脇役ではありますが、神様はヨセフに大切な役割を与えておられるのです。脇役に徹すると言うことは、自己主張しないと言うことです。言い換えると、御言葉の導きに従う信仰です。ヨセフも、きっと言いたいことは山ほどあったでしょう。けれども、御使いの告げる神様のお心を最優先させたのです。そのことによって、クリスマスの出来事、すなわち救い主の誕生が、神様のご計画のうちになされたことを、告げているのです。
  ヨセフは、今この時私にも無言のうちに脇役の大切さを教えてくれているのです。
 教会はそのような人たちによって築き上げられてきましたし、今も築き上げられているのです。目立たないところで一生懸命にご奉仕くださっている一人ひとりがいて下さって今の教会があるのです。
  その人でなければできない役割があるのです。それはたとえ病の中にあったとしてもです。
  「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われる方を信じ、十字架の赦しと復活の希望をもって主に委ねつつ歩んでいるその信仰の姿は、大切な大切な役割を担っていると言えるのです。
  「何ができるか」も大切なことです。けれども「どう生きるか」がもっともっと大切なのではないでしょうか。
  私には私に与えられた役割があるのです。要は、自己主張せず、神様の御心に従うことです。
  クリスマスの出来事は、もう一度この事を、新たな思いをもって心に刻みつける時でもあるのです。
  天に栄光、地に平和があるように。