牧師室'12. 6


◎ 2012. 6 ◎
「私のお父さん」

だから、こう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
(新約聖書 マタイの福音書 6:9)


  ある、幼稚園での出来事です。4歳児担任の先生が園児に質問しました。「みんな、目をつぶって。いいですか、お母さんの顔を思い浮かべて下さい。」少し時間をおいて、「思い浮かびましたか?」ほとんどの園児が、元気よく「は〜〜い!」と手を上げました。「さあ!今度はお父さんの顔ですよ。」・・・「思い浮かびましたか?」手が上がったのは、2〜3人でだけでした。
  世の父親にとっては、何とも寂しい限りです。何故でしょう?
  それは、長い時間共に過ごしているのがお母さんだからです。
  そこである人が言いました。聖書には、「父なる神様」と神様を「お父さん」と呼んでいるけど、神様が男だって誰が決めたの。「天の母なる神様」の方が、親しみやすくて良いんじゃないの、と。さて、あなたは、どう思いますか?
  それを解く鍵は、聖書です。答えは単純です。イエス様が神様のことを「父なる神よ」とお呼びになっているからです。
  今日の御言葉は、イエス様が弟子たちに教えられた祈りの冒頭の言葉です。
  「天にいます私たちの父よ。」と。
  旧約聖書においても、「父」というのは非常に権威ある存在として語られています。例えば、「父アブラハムの神。父ダビデの神。」という表現ですが、旧約の時代、「父」というのは、絶対的な権威を持っていました。その絶対的な権威を持っている父(アブラハム・ダビデ・・・)の神は、アブラハムやダビデ以上の権威をもっておられるお方である、という事を表しているのです。
  マタイの福音書1:1に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」とありますが、そのアブラハムの子孫、ダビデの子孫として、世にお生まれになったイエス様が、神様をご自分の「父」と呼ばれたことは、肉なる父(ヨセフ)以上に絶対的な権威をもっておられるお方であることを示しているのです。
  しかし、それと同時に、イエス様が「父なる神」と呼ばれる神様は、愛と恵みに満ちたお方であると言っています。
  よくご存じの「放蕩息子の例え話」あるいは「父の愛のたとえ」と言われるルカの15章に出てくる父は、父なる神様の愛のお姿を指し示しています。
  ですから、イエス様は「天の父なる神よ」とこのお方の名を呼んで祈るべき事を教えられたのです。絶対的な権威をもっておられると同時に、愛と憐れみに富んだお方であるからこそ、全く信頼するに足る神であるとイエス様は仰っておられるのです。
  パウロ先生もテサロニケ第二の手紙の中に、「2:16 どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、2:17 あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」と書き記しています。そして、私たちがこのお方の名をおよびする時、忘れてならないのは、その後に続く言葉です。それは「御名があがめられますように。」です。
  それは、私たちが祈り呼び求め、寄り頼むべきお方は、「全能なる神、絶対的な権威者である」ことを告白し、栄光を帰することだからです。
  でも、律法的にそうしなければならないと言うことではありません。けれども、私たちにとって神様というお方がどのようなお方であるのか、そしてイエス様が『だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』と教えて下さった祈りの意味を心にとめて祈ることは大切なことではないでしょうか。
  ですから、私たちは主の祈りだけではなく、「父なる神様」と呼び求めて祈る時には、「御名があがめられますように。」という信仰告白を持って、神に栄光を帰することは大切なことと言えます。それは、私たちと、神様とがしっかりと結びつく接着剤のような役割であると思います。そうすると、次に続く祈りが確かに主の御許へと引き上げられていくのを味わうことができるのです。
  『御国が来ますように。御こころが天で行われるように地でも行われますように』。主の祈りは私たちの信仰告白でもあるのです。アーメン