牧師室'12. 4


◎ 2012. 4 ◎
「主のいこいの場」

66:1 主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
66:2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
(旧約聖書 イザヤ書 66:1〜2)


  皆さんが一番ゆっくり出来る、「いこいの場」って何処ですか?
  私はやっぱりお風呂ですかね。湯船に浸かってのんびりと鼻歌を歌いながらウト、ウト、これが最高。温泉だけにホットしますね。
  さて、聖書によりますと、人間は神の像に似せて造られた、とあります(創世記1章27)。そしてその意味は、「人間は一定の方向性をもった存在であって、「人間=神の像」ではなく、「神の像」へ向けて造られた者なのなのです。ですから、人間は、単独で存在し得るものではなく、神様に向かうことによってのみ、本来あるべき人間として生きるのです。
  『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。』(2:7)とある通りです。
  アウグスティヌス( 354年11月13日 - 430年8月28日は、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父の一人。)が、「人は、真の神に出会うことなしに真の平安はない」と言いました。
  神様のお言葉に従わずに、自分の思いを優先させてしまったが故に、神と人間との間に『罪』という高い壁が出来てしまいました。神様と向かい合うことが出来なくなった人間は、ゆくべき道を失った、地上の迷子者、失われた者となってしまったのです。
  イエス様はあるとき、迷子の羊のお話しをされました。「見つけるまで捜し歩かないだろうか』(ルカ15:4)と。 イエス様はこの迷子の羊を見つけ出すために、この世に来られたのです。迷子の羊とは私のこと、貴方のことです。ですからイエス様は言われました。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19: 10)と。
  それは、私たちが失ってしまった「いこいの場」を取り戻してくださるために来た、と言うことに他なりません。一匹の迷える羊を見いだした羊飼いは、大喜びして近所の人を呼び集めたのです。主なる神様は私たちを豪華な食卓に招いてくださっているのです。
  そしてこう記しています。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15:7)と。
  『喜びが天にある』とありますが、喜びのある所こそが『いこいの場』なのです。
  人が神様と向かい合って生きることを神様ご自身が何よりも望んでおられるんです。ですから失われた一匹の迷える羊のために神様の心は傷んで居られるのです。
  そこで、イザヤ書66章1〜2をご覧頂きますと、「主はこう仰せられる。」とあります。主なる神様が『………私のいこいの場は、いったいどこにあるのか。』と言われるのです。
  「え!」神様のいこいの場?
  つまり、私たち人間が神様から離れて罪の中に歩んでいる姿をご覧になり、気が気でない、心休まる暇が無いといっているのです。そして2節にこうあります。
  「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(66:2)
  神様によって造られた者が、へりくだって心砕かれ、神様のお言葉に聞き従うように、神様は求めておられるのです。そして、そこに神様の「いこいの場」があるのだというのです。つまり私たちが、神様の「いこいの場」なのです。
  「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(Tコリ 6: 19)
  イエス様の十字架と復活によって与えられた、平安の内に歩む私たちが、『主のいこいの場』となるのです。
  これは何と厳かなことでしょうか。
  心砕かれ、神様のお言葉に聞き従う者を、神様は求めておられるのです。
  主の御許が、私たちのいこいの場であると同時に、その様な私たちを求めておられる、ここに真の『いこいの場』がある。これこそがまさに、愛の関係なのです。