牧師室'12. 3


◎ 2012. 3 ◎
「愛されて」

5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
(新約聖書 エペソ人への手紙 5:1〜2)


  主の御名を賛美いたします。
  早いもので、もう3月も半ばを迎えました。花々が今や遅しと顔を出し、良き香りを放ち初めました。
  『ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎていった。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやった来た。』とソロモンは歌いました(雅歌2:11~12)。
  神様はその様に、私たちの人生を様々な事柄を通して楽しませてくださいます。山も海も川も、地にある全てのものは、神様の栄光の為に造られたのです。『わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った』(イザヤ書43:7)と。そして神様は、私たち人間を特別な存在としてこの地に置かれたのです。
  ところで、神様の御性質をひと言で言い現してください、と言われたら、さて、どうお答えになりますか?ヨハネ第一の手紙4章16bに『神は愛です。』とありますように、神の御性質をひと言で言い表すなら、それは『愛』です。
  ですから、神の形に似せて造られた私たちは、神を愛し、そして互いに愛し合う存在として造られたのです。
  しかし、ご存じのように人は神様の愛に背を向け、神との麗しい関係を失ってしまいました。そして人と人との間にも深い溝が出来てしまったのです。憎しみ、妬み、敵意、争い、偶像礼拝・・・等々(ガラテヤ5:19〜21)。
  さて、そこでちょっと立ち止まって考えてみますと、イエス様を救い主と信じ、救いときよめの恵みに与った私たちクリスチャンの内には、こうした憎しみ、妬み・・・等が、無くなってしまったのでしょうか?
  いいえ、あの偉大な伝道者パウロ先生でさえこう言っています。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ人への手紙7章)
  この叫びは、私の叫びでもあります。そして、私たちがイエス様を救い主と信じ、バプテスマ(洗礼)を受け神の恵みの中に飛び込んだとき、それはそれは豊かな神様の愛が私のすべてを覆ってくださったのです。それは、まさにイエス様の十字架に他なりません。ですからパウロ先生が言いましたように「主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と、信仰の告白をするのです。これは、神様の約束の御業であり、私たちはその様に信じ告白して、神に栄光を帰するのです。これこそが、神様の栄光の為に創造された人間の真の姿なのです。
  ですからパウロ先生は言うのです。『5:1愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。5:2また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。』と。
  神様の形に創造された私たちは、『愛されて』生かされているのです。ですから、私たちも愛し合って生きることが最も美しい、そして豊かな人生を味わうことが出来るのです。
  『愛の内に歩みなさい』とありますが、歩むとは生活する、あるいは生活そのものと言えます。ですから、愛し合うってそんなに難しいことではないのです。
  ちょっと一筆したためる、メールを打つ、電話をかける、ひと言声をかける。時には一緒に買い物したり、食事をしたり、旅をしたり。そうした、日常的な行いの内に愛が見える。心と心が触れ合えばそこに愛が見える。それが『愛の内に歩む』と言うことです。『愛されて』いるのですから。