牧師室'12. 2


◎ 2012. 2 ◎
「もしそうでなくても」

もしそうでなくても、
王よ、ご承知ください。
私たちはあなたの神々に仕えず、
あなたが立てた金の像を拝むこともしません。
(旧約聖書 ダニエル書 3:18)


  「十人十色」と言われますが、十人いれば、十人それぞれが違った人生を歩んできて、今という時を生きています。
  日は昇り、日は沈む。朝が来て一日が始まり、夜が来て一日が終わる。その様な繰り返し繰り返しの一日一日、が気がつくともう63歳。そして、振り返ってみると、晴れの日もあれば雨の日や、嵐や吹雪の日もあった。一日たりとも同じ日はなかった。
  それどころか、時には、想定外と言われる様なことが起こる。大海に漂う小舟のように、世の嵐に翻弄されることもあるのです。
  それが人生なのではないでしょうか。
  今日の聖書「ダニエル書」は若くして窮地に陥った、少年たちのことが記されています。
  ダニエル、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴという四名の少年です。
  お開き頂いた箇所は、特にシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人の身に降りかかった、想定外の出来事でした。まさしく、絶体絶命と思われる様な状況の中で、彼らを支えたのは、絶対者なる神様への信頼でした。
  荒れ狂う人生の中で、私たちが何に信頼を置いているかは、計り知れない程、重要なことです。
  Hさんは、若い頃から信仰心に富んだ方でした。結婚して子育ての中、色々な問題に直面し、思い悩むと占い師のところへ行きました。けれども、一時的な安心は得られても、それは長続きしません。そして、あちらこちらと、御利益があると言われる所へ、惜しげもなくお金をつぎ込みました。けれども、どれも一時の気休めにしか過ぎませんでした。そんな時、聖書の神様に出会ったのです。
  Hさんは、このお方こそ、真の平安を与えてくださる神様であることを知りました。状況が変わる(自分の思ったとおりになる)ことばかりを求め続けていた自分の愚かさに目が覚まされました。たとえ目に見える状況は変わらなくても、十字架の上で静かに見守っていてくださる、イエスさまの眼差しに魂は癒され、救いの確信に導かれました。
  今度は一時的な気休めではありませんでした。聖霊様が内に住んでくださる真の平安を与えられたのです。
  そのお母さんの変わり様に導かれるように、お嬢さんが洗礼を受け、お酒とカラオケに明け暮れていたご主人もイエス様を救い主と信じ、救われ、主を賛美する喜びに満たされて、今も忠実に主の僕として歩んでおられます。
  そして何と、長い間家を離れていた息子さんは、今牧師として主の福音を宣べ伝えています。
  「たとえそうでなくても」全能者なる神様に、全幅の信頼を置いて歩むなら、神様が最も良き時に、最も良き方法を持って事をなしてくださるのです。
  シャデラク・メシャク・アベデ・ネゴの三少年は、王なる権威を目の前にしても、全能者なる神様から目を反らすことはしませんでした。
  王が造った金の像を拝むようにとの命令が国中に出された。もし、そうしない者があれば、ただちに火の燃える炉に投げ込め(3:6)。エルサレムから連れて来られ、異国の王に仕える身となったこの三人の少年たちも例外ではありませんでした。
  ところがそれを聞いた少年たちは、「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。・・・しかし、もしそうでなくてもあなたの立てた金の像を拝むことはしません」(3:16〜18)ときっぱりと言ってのけたのです。
  その結果は?、是非聖書をお読みください。
  私たちもそうした状況に出くわすことがあるでしょう。しかし、信頼すべきお方はただ一人、御子イエス様のいのちさえ惜しまずにお与えくださった、全能者にして、憐れみ深く愛に富んだ父なる神様です。あなたも、私もこの神様に愛されているのです。