牧師室'12. 1


◎ 2012. 1 ◎
「いのちのパン」

「これは天から下って来たパンです。
あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。
このパンを食べる者は永遠に生きます。」
(新約聖書 ヨハネの福音書6:58)


  皆さんは、今年のお節料理はどのようになさいましたか?
  最近は余り家庭では作られなくなったようですね。特に若い世代の人たちは、デパートや仕出し屋さんから買うことが多くなったのではないでしょうか。
  でも、やっぱり正月と言えば、お節料理ですよね。「お節」の語源は中国から伝わったのたそうです。中国の宮廷で、季節の移り変わりに行われる行事を奈良時代の朝廷が取り入れ、節会(せちえ)として行われ、そこ並べられるおご馳走のことを節供(せちく)と言った。それが庶民の間でも行われるようになり、特にお正月に出されるようになった料理のことを「お節料理」と言うようになったのだそうです。
  味にしても、食材にしても、良いものが使われたのだそうです。昔も今も、人の食欲には果てしないものがありますよね。
  けれども多くの人は「命の糧」については余り関心がないようです。いつか果て行く肉体のためには、毎食毎食献立を考え、塩分は控えめに、糖分は一日何グラム、一日の総摂取カロリーは・・・、と気を遣います。そう言う私も最近、気になり始めました。勿論それは大切なことですし、健康を維持するためには、そうすべきだと思います。
  けれども、それと同じくらい、いえ、それ以上に、魂にも栄養が必要なのではないでしょうか。
  よくご存じとは思いますが、イエス様がこんな例え話をなさいました。
  ある金持ちの畑が豊作でした。ところが『どうしよう。作物を蓄えておく場所がない。』そこで彼は、今まで使っていた小さな倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておく事にしました。そして、自分のたましいにこう言うのです。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
  ところが、神様は彼に言われました。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
  それから弟子たちに言われました。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。」(ルカの福音書12:16〜22)と。
  イエス様は、食べ物や着物が必要ないと言っているのではなく、もっと大切なものがあるだろうと言っているのです。それは「いのち」です。なぜなら「いのち」は神の霊の住まいだからです。
  そしてそれは、神様が旧約の時代から、ずっとイスラエルの民に語り続けてきたことなのです。
  「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる。」(申命記8:3)と。
  マタイの福音書には「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4)とあります。
そしてイエス様は「私がいのちのパンです」(ヨハネ6:35)と言われたのです。 イエス様ご自身がいのちそのものだと。そのイエス様が、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われ、そのことばの通りに、十字架の上でいのちを捨てたのです。
  ですからイエス様のことばにはいのちがあるのです。
  瓦礫の山と化した町を見渡すように、教会の跡地に十字架が建てられました。
※被災地に立つ「シーサイド・バイブルチャーチの十字架」
  「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリ 1:18)
  天から下って来たイエス様こそが、私たちを永遠のいのちへと導いて下さる「いのちのパン」なのです。
  「これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」(ヨハネ6:58)