牧師室'11.12


◎ 2011.12 ◎
「神共にいます」

「見よ、処女が身ごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
(訳すと、
神は私たちと主におられる、
という意味である。)
(新約聖書 マタイの福音書 1:23)


  メリークリスマス!
  今年もこうして、クリスマスをお祝いすることができましたこと、心から感謝し、主の御名を賛美します。けれども、大きな悲しみの中でこの時を迎えた方も多くおられます。先日もテレビ見たのですが、小学生の女の子、あの津波で両親・弟を失いました。施設において、クリスマスを迎えようとしています。でも、そうした中でけなげにその状況を受け入れ、懸命に生きている姿に、涙を誘われました。
  そうした一人一人の上に、神様の哀れみと慰めと助けとがありますようにと祈らざるを得ません。
  さて、キリスト教は、言葉の宗教と言われます。それは言うまでもないことですが、神様はお言葉一つで、無から有を生み出されたからです。「光あれと言われた。すると光があった。」と。
  そしてヨハネは、こう書き記しました。「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」(ヨハネの福音書1:1)と。そして「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14)というのです。「すまわれた」とは、「生活を共にする」という意味です。と言うことは家族となると言うことです。ですから「この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(12)神様と家族になったと、ヨハネは言うのです。
  「この方」とはイエス様のことです。イスラエルの民は「この方」が来られるのを今か、今かと待ちわびていたのです。なぜなら、神様がそのように約束なさったからです。「見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(イザヤ書7:14b)と。イエス様がお生まれになる、およそ740年も前に、予言者イザヤを通して約束をお与えになったのです。
  以来彼らは待ちに待ち続けたのです。メシヤ・救い主が来る。この約束は、イスラエルの民にとって、大きな大きな希望の星となって輝き、彼らの行く道を照らし導いたのです。そして、今からおよそ2000年前、約束のメシヤ・救い主が世にお生まれになりました。
  今、女性会では、ヘンリ・ナーウェンの「今、ここに生きる」という本をテキストに学んでいます。その中に、誕生日についてこう書かれています。「誕生日を祝うと言うことは、『あなたがいてくれてありがとう』と、ある人に言うこと」であると。
  このことから言えることは、私たちがイエス様のお誕生をお祝いするということは、「イエス様あなたがいてくれてありがとう」と感謝の心を現すことでもあるのです。 神であられるイエス様が私と共にいてくださるというのです。何という喜びでしょうか。そしてそれだけではありません。インマヌエルなるお方は、再び世に来られるとの約束を残して、天にお帰りになりました。私たちと同じ肉の体を持ってお生まれになったインマヌエルなるお方は、霊の体をもってこられ、私たちを永遠の天の都に導いてくださるのです。
  この約束のうちにこそ、私たちの希望があるのです。クリスマスは『神共にいます』という約束のうちに、今の時を生かし、永遠のいのちの約束をもってやがて迎えに来てくださるイエス様を待つ、準備の時でもあるのです。神様の言われたことは必ずなる。ですから大丈夫、安心して、あなたのすべてを、神様の約束のことばに委ねましょう。