牧師室'11.10


◎ 2011.10 ◎
「力を抜いて生きよう」

45:5 わたしが主である。
ほかにはいない。
わたしのほかに神はいない。
あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
(旧約聖書 イザヤ書 45:5)


  「さあ、今日も一日がんばりましょう!」
「そうですか。大変ですね。がんばってください。」
  さて、あなたはこの「がんばる」という言葉を一日にどれくらい使っていますか?数えたことなどないでしょうが、きっと無意識のうちに「がんばるぞ。がんばれ!……」と何度も口にしているのではないでしょうか。
  ところでこの「がんばる」という言葉を辞書で引いてみました。こう記されています。
1. 困難にめげないで我慢してやり抜く。
2. 自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我(が)を張る。「自説を譲らない」
  つまり、何者にも頼らず、自分の力だけで成し遂げる。と言うことです。とすると「がんばってね。がんばりましょう。」と言うこの言葉は、何かとても優しい励ましの言葉のように思いますが、「自分で何とかしなさい。」と相手を突き放しているようにも取れるのではないでしょうか。
  ですから、一生懸命、我慢してやっても結果が出ないで落ち込んでいる人に、「がんばってね!がんばりましょう!」と言っても、「もうこれ以上どうがんばればいいの。」と逆に相手を更に落ち込ませることになりかねません。
  そこでふと考えたのですが、「がんばってね。私も応援していますから。」とか、もっと具体的に関わることが出来るなら、「がんばってください。私に何か出来ることがあったら言ってくださいね。」と、ひと言添えることが出来て初めて「がんばってください。」と言う言葉が本当の意味で相手を励ますことになるのではないでしょうか。でなければ、かえって相手を落ち込ませてしまうことになるのです。
  とっても便利な言葉ですが、相手の状況を見極めて、声を掛けることも思いやりの一つではないかと思います。
  ところで、その言葉を自分自身に投げかけてみましょう。「さあ、今日も一日がんばるぞ。」
  でもやっぱり自分自身のがんばりには限界があります。
  そんなときこそ、私たちに与えられた信仰の出番です。
  旧約の民も自分の力で、神の律法を守ろうと一生懸命努力をしました。けれども、自分の力で、律法を守り通すことは出来なかったのです。ローマ人への手紙3章20節の後半に「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」とありますように、罪の中に生まれた私たちには、律法を完全に守りきることは不可能なのです。私たちには、その様な力はないのです。ですから神様は言われるのです。
  『わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。』と。(イザヤ書45:5 )
  力を与えてくださるのは、神様なのです。ですから、「がんばらなくてもいい」んです。自分の力で何とかしようと、我を張って「がんばらなくてもいい」んです。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:4)と仰ってくださる神様の御手にお委ねするのです。それが私たちに与えられた信仰、十字架の上で苦しみを受けてくださったイエス様が私たちに与えてくださる『平安』であり、生きる『力』です。
  ですから力を与えてくださると約束してくださるイエス様に任せましょう。我を張らず、『力を抜いて生きよう』ではありませんか。
  何気なく使ってしまう『がんばりましょう』の代わりに『God Bless You=神様の恵があなたにありますように』と神様の祝福を祈る言葉を使いたいものだと思います。