|
知らない所へ行ったとき、頼りになるのは道路標識(道しるべ)です。最近は車で移動することが多いので、あの、青看(青い看板)なしには遠出は出来ません。それでも時々間違ってしまうことがあります。また、道は高速道路が出来たり、橋が新しく架けられたりして、変わってしまうことがあります。とすると、やっぱり一番いいのは知っている人に聞くことです。 同じように人生の旅路もやはり道しるべが必要です。「歌は世につれ、世は歌につれ」と名台詞で始まる歌番組がありました。 確かに歌は時代と共に変わってきました。それは教会でも同じ事が言えます。それはそれで受け入れていかなければならないと思います。新しい歌も大いに結構。でも、特に最近は「讃美歌」(日本基督教団讃美歌委員会)が使われなくなりましたので、私たち古い者にとっては、残念に思うこともあります。沢山の賛美がありますが、その中でもよく歌われたのが、288番「たえなるみちしるべの」です。1節から5節までありますが、やはり1節が私の心に今も懐かしく響いて来ます。 1節 ☆ たえなるしるべの ひかりよ 家路もさだかならぬ 闇夜に さびしくさすらう身を 導き行かせたまえ ☆ 道に迷いさまよっていた私。もしこのまま死んだら、私はいったいどこへ行くのか?と暗闇の中にいた私の「道しるべ」となって下さったのがイエス様でした。 この歌の作者は、ジョン・ヘンリー・ニューマンという人ですが、旅先(シチリア島)で病気になり、帰国の見通しもつかずうちひしがれていました。その様な暗闇の現実を前に、導きの光を求める祈りとして生まれたのがこの歌だということです(1833年)。 |
苦しい暗闇の中を行くときも、その先には必ず明るい朝が来ることを信じ、どこまでも主に信頼して歩んでゆく、という信仰の告白を祈った歌です。彼の祈りを神様は聞いておられました。神様は、昔も今も変わらないお方です。400年という長い奴隷の生活を強いられていたイスラエルの民が、苦しみの中で呼ばわったとき、その叫びを聞き取って下さいました。 『主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」』(3:7)と。 そしてモーセを遣わして、奴隷の地エジプトから連れ出させるのです。よくご存じのことと思いますが、約束の地へ行くのに、数週間もあれば行けるのに、彼等の心かたくなさの故に、40年もの間、荒野をさまよい歩くことになるのです。 今のように道路標識があるわけでもなく、まして夜は闇夜に烏、真っ暗闇に包まれます。 しかし神様はこの民を、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれるのです。 出エジプト記13章21節にはこう記されてあります。 『主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。』と。そして、22節には、 『昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。』と。 さて、今日私たちを導いて下さる『雲の柱、火の柱』とは何でしょうか?いうまでもありません、世の光として来てくださり、いつも共にいると仰った『イエス』です。 ☆ しるべとなりたまいし ひかりよ 今よりなおも野路に 山路に 闇夜のあけゆくまで 導き行かせたまえ ☆(4節) 時には暗闇と思えるようなときがあったとしても、闇は光に勝つことは決して出来ないのです。まさしく、信仰は勝利です。 |