牧師室'11. 4


◎ 2011.4 ◎

「いつものように」

ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。 ──彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。── 彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。
(旧約聖書 ダニエル書6:10)


  言い古されたことですが『祈りは神様との会話』或いは『祈りはクリスチャンが生きるための呼吸』であると言います。友達同士でも、夫婦でも、人と人との交わりの中で会話が無くなったらその交わりは危機的状況にあると言われます。
  それは、クリスチャンにとって神様との関係にも当てはめることが出来ます。もし私たちが祈らなくなったら神様との関係は失われていると言えるのです。
  『祈りの精神』という本を書いたフォーサイスは、「最悪の罪は祈らないことである。」と言っています。 そしてこう言うのです。「クリスチャンの中に誰の目にも明らかな罪、犯罪、言動の不一致を見ることは実に意外な事であるが、これは祈らない結果であって、祈らないための罪である。神を真剣に求めない者は神から取り残される」と。
  祈りによって神様の前に出ることによって、私たちの心は、神様の求めておられる正しさへと導かれるのです。
  今日ダニエル書をお開き頂きました。エルサレムがバビロンによって滅ぼされた時、まだ少年であったダニエルはバビロンに囚われの身となってしまいました。
  しかし、異教の地にあっても、ダニエルはイスラエルの神、全能なる神に祈ることを決して怠りませんでした。
  当時日に三度、エルサレムの方角に向かって祈るのが習慣でしたので、ダニエルは自分の部屋の窓を開け、エルサレムに向かって祈ることを日課としていたのです。
  バビロンに連れてこられて後、王の夢を解き明かしたことから、王は彼を気に入り、全国を治める地位に就けようとするのです。ところが、他の大臣や太守たちの逆鱗に触れ、彼等の策略によって窮地に陥るのです。
  彼等は言葉巧みにダリヨス王をそそのかし、一つの禁令を定めさせます。それは「30日の間、いかなる神にも人にも、祈願する者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれる」と言うものでした。それを知ったダニエルは、命を失っては元も子もないと、祈ることをやめてしまったでしょうか?いいえ!聖書はこう記しています。「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。─彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。─彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」と。あの大臣たちにしてみれば、“してやったり”です。早速ダニエルを捕らえ、獅子の穴へ投げ込むのです。ところが、神が御使いを送り、獅子の口をふさぎ、彼は何の害も受けなかったのです。
  受難節の時に何故この箇所を選んだのかと申しますと、実はここにイエス様のお姿を見ることが出来るからです。
  イエス様が十字架に架けられる前に、最後の晩餐の後、ゲッセマネの園に行かれます。その時の様子をルカはこう記しています。
  「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」(ルカ22: 39 )
  ダニエルも、イエス様も人生最大の危機の中で「いつものように」祈られたのです。
  「いつものように」と言うこの事は、「変わることの無い平安がそこにある」と言うことではないでしょうか。真実なる神様に信頼しているのなら、決して揺るぐことの無い平安が私たちを支配して下さりるのです。いつものように」平安の中に生きるために大事なのは、十字架と復活の主に信頼し、自らを明け渡す信仰では無いでしょうか。