牧師室'11. 3


◎ 2011.3 ◎

「必ず成る」


・・・イエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」  
(新約聖書 ルカの福音書24:44)


  今、私たちは受難節を過ごしています。受難節はイエス様の苦しみ、十字架への道を思い見つつ歩む厳かな時です。
  でも、私たちは既に、復活の主に出会っているのです。ですから私たちはこの受難節を、ただイエス様の苦難と十字架にだけ目を向けるのではなく、その事を通して今、私たちに与えられている、計り知れない神様の恵みを感謝する思いをもって過ごす事もまた大切なのではないかと思わされています。
  聖書を読んでいきますと、およそ三年半イエス様と行動を共にした弟子たちは、甦られたイエス様にお出会いした時に、すぐにはイエス様だと気づかなかったと記されています。
  イエス様が甦られた後、二人の弟子(ルカ24:13)がエルサレムからエマオという村に行く途中、イエス様が近づいてきて一緒に話しながら歩いて行ったのですが、二人はそれがイエス様だとは気づかないのです。三年半近くイエス様と行動を共にしたのに、「え!そんな」と言いたくなりますよね。でも聖書はこう記すのでです。「ふたりの目はさえぎられていて、イエスだと分からなかった」と。「目はさえぎられていた」とありますが、ふたりとも、十字架に架けられて死んだイエスが生きて、しかも今目の前に一緒にいるなどとは、夢にも思わなかったし、いきなりイエス様が私だ、と言ったとしても、きっと信じる事は出来なかったのではないでしょうか。それよりも、自然な形でイエス様だという事が分かるように、聖書全体を通してイエス様ご自身について書いてある事柄を解き明かされたのです。
  そして、家に入り食卓に着かれたイエス様がパンを取り祝福して裂き、彼らに渡されると、彼らの目が開かれてイエス様だと分かったというのです。
  Tコリント12:3に「・・・聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」とあります。ふたりが後に「道々お話になっている間も、聖書を説明して下さった間も、私たちの心は内に燃えていたではないか。」と言っていますが、まさに聖霊様が彼らの内に働いておられたのです。
  イエスは言われました。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)と。
    皆さんもそのような経験をきっとお持ちの事と思います。森有正という人はそれを「内なる促し」と言っています。「内に燃える」「内なる促し」色々な表現の仕方はあるかもしれませんが、聖霊様は私たちの内に働かれるお方なのです。それは取りも直さず、聖書の言葉は真実であると言う事の証拠です。ですからイエス様は仰るのです。「・・・わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」と。
  イエスは父なる神様の御心を行うために世に来られました。それは、イエス様が言われたように、旧約聖書によって示されているメシヤ預言が「必ず成就」しなければならないと言う事なのです。
  イエス様が最後の晩餐の後、弟子たちに、「しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行っていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」(ヨハネ14:31)、十字架の道へと進んでいかれたのです。
  そして甦られたイエス様は、恐れ隠れている弟子たちに現れ、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」と言われ、それに続けてこう言われました。
  「(ルカ24:46)次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、(ルカ24:47) その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」と。
  私たちも、この御言葉の真実を証しする証人のひとりなのです。