牧師室'11. 2


◎ 2011.2 ◎

「わたしはある」

神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」
また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」
(旧約聖書 出エジプト3:14)


  モーセについては、出エジプト記に詳しく記されています。430年もの間奴隷となっていたイスラエルの民を、エジプトから連れ出し、乳と密の流れる地カナンへと導くために神がお立てになった偉大な指導者です。しかし、民の不信仰の故に、40年もの間荒野をさまよう羽目になってしまいます。
  エジプトを出たのはいいけれども、紅海を前に立ち往生、前は海後ろからはエジプトの軍隊が追い迫ってきます。もう絶体絶命と言う時、神様は海の水を分けて道を作りイスラエルの民を向こう岸へと連れ出します。
  旅の途中民はのどが渇いた、腹が減った、肉が食べたいと不平不満ばかり言ってモーセを困らせます。けれどもモーセは、ただ神様のみに目を向け民を導きます。
  聖書はモーセについて「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数記 12:3) と言っています。勿論この謙遜は神様の前に於ける謙遜です。
  そんなモーセが、神様からイスラエルの民を「エジプトから連れ出せ」と言われた時、ある一つの質問を致しました。
  イスラエルの民が、お前を遣わした方の名は何というかと聞かれたらどう言えばいいのですか? すると神様は「わたしは、『わたしはある』という者である。」と言われました。
  これはどんなことを言い表しているのでしょうか。
  皆さんも経験したことがあるのではないかと思うのですが、私が幼い時、汽車(石炭を焚いて走る蒸気機関車)に乗って遠い親戚の家に行ったときのことです。甥っ子と夢中で遊んでいるうちに、ふと気がつくと母の姿が見えません。急に不安になった私は、「お母さん、お母さん」と叫びながら探しました。すると母が「ここにいるよ。どこにも行きやしないよ。」と言いました。私にとっては、その一言だけで十分だったのです。
  モーセはイスラエルの民をエジプトから連れ出すという、とてつもない大きな仕事を言いつけられたとき、そんなこと自分には無理と不安な思で一杯でした。
  すると神様は「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。」(3:12)と言わたのです。モーセにとってはその一言で十分だったのです。けれども、イスラエルの民に、お前を遣わした方は何と言うのかと聞かれたら、どう答えたらいいのか分かりませんでした。モーセの問いに神様は「『わたしはある』という者である。」と言われたのです。
  それは、「いつでも、どこでも、どんな時にも決して変わらず存在している」と言うことです。つまり神様は永遠の昔から、永遠の未来までズーと存在しているお方だというのです。
  本当に神様はおられるのだろうか?私を見捨ててしまったのではないだろうか?と不安なることがありますよね。目には見えないお方ですからどのようにそれを確かめたらいいのでしょう。
  もうおわかりでしょう。そう大丈夫です。イエス様は私と共にいると約束して下さっているのですから。昨日も今日もそしていつまでも変わることのない(ヘブル13:8)お方イエスさまがはっきりと宣言して下さいました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と。
    あるときイエス様の弟子達が船で向こう岸に渡ろうとしていましたが、向かい風に悩まされていました。すると湖の上をだれかが歩いて近づいてくる。「幽霊だ」と恐れている弟子達に、「わたしだ。恐れることはない」とイエス様は言われました。イエス様が「わたしだ」と言われたこの言葉は、神様がモーセに言われた「わたしはある」と同じ言葉です。ギリシャ語では「エゴ−・エイミー」(εγω  ειμι)と言います。モーセと共におられた神様は、イエス様の十字架と復活を通して今も私たちと共にいてくださるのです。永遠から永遠までおられる神様は、昔も今も決して変わることの無いお方です。