牧師室'11. 1


◎ 2011.1 ◎

「恵みはとこしえまで」

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
(旧約聖書 詩篇107:1〜9)


  迎えました2011年も、ひと月を終えようとしていますが、特に今年は厳しい寒さが続いています。
  新潟地方では、19年ぶりの大雪に見舞われ、特にご高齢で一人暮らしの方たちにとっては、日々雪との戦いで大変な生活を強いられているとのことです。
  ここ南国熊本でも雪が降りましたから、日本列島冷蔵庫状態です。そんな厳しい自然の中でも、時は確実に春へと向かって進んでいます。
  確かに私たちの現実に目を向けますと、様々な困難、試練が日々起こって来ます。長年牧師として主にお仕えしてこられたY先生が、難病のため第一線を退くことになりました。「何故?どうして?」という思いが心をふさぎます。しかし、Y先生はこう言われました。「これも神様の御手の中にあること。感謝を持って与えられた日々を歩んでいきます。」と。このお言葉の中に、主に信頼して歩んでこられた信仰そのものが表れていると思います。
  さて、詩篇107編をお読み頂きました。その一節は「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」とあります。しかしその先を読んで参りますと、「闇と死、苦しみとわざわい」という現実の厳しさの中で神に叫び求める姿が描かれています。
  いったい人はそのような中で、感謝することが出来るのだろうか? 出来るとするなら何故なのだろう。 答えはただ一つ、「神様の臨在の中に生きる」と言うことです。つまり全能なる神様へのまったき信頼の中に生きると言うことです。
  「神様へのまったき信頼」とはどこから来るのでしょう。
  それは神様の言葉からです。2節には「主に贖われた者はこのように言え。」とあります。
「主に贖われた者」とは、「神様のものとされた」と言うことです。神様はアブラハムを選んで神様のもの(民、子)とされました。以来イスラエルの人たちは「主に贖われた者」「神の民」であり、それ故に神様はこの民を神様の臨在の中で導いてこられたのです。出エジプト、モーセの十戒を初めとする神様の奇跡と言葉を通してです。
  そして、その最高の奇跡であり言葉が「イエス様の誕生であり、十字架と復活」なのです。しかもこの出来事は、「すべての人のため」であったのですから、私のためでもあったと言うことです。
  ですから「主に贖われた者」とは私であり、あなたのことなのです。そして聖書はこう言うのです。「信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。」(ローマ10:14)と。
  私たちはお父さんという存在を信じているから「お父さん助けて」と叫ぶことが出来るし、お母さんという存在を信じているから「お母さん助けて」と叫ぶことが出来るのです。同じように、私を贖ってくださった神がいるという信仰によって、神に向かって叫ぶことが出来るのです。
  ではそのように叫んだ私たちに神様は何をもってお答えくださるのでしょう。詩篇の記者はこう言うのです。「まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」と。
  私自身もこのような経験を何度も与えられました。
  目に見える現実は変わらなかったとしても、御言葉により主の臨在の中に生かされていることを知る時、まさに「人の子らへの奇しいわざを感謝せよ。」(8節)とありますように、感謝の思いがわいてくるのです。これこそ「主に贖われた者」に与えられる、主のいつくしみと恵みなのです。
  「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」アーメン