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聖書には人間の歴史が刻まれています。けれども、聖書が伝える最も大きな出来事は、「神が人となられた」と言うことです。これを神学用語では「受肉」と言います。 では、何故「神が人とならなければならなかった」のでしょうか? 創世記の1:26には『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」』とあります。 神は人を神との霊的交わりの中に生きるようにと、 すなわち、『神とともに住む』者として創造されたのです。ところが、神に背き罪に陥った人に、神は言われました。 「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(3:19)と、死の宣告を受けたのです。 肉体の死と共に、霊的な神との交わりの断絶が告げられたのです。 人は霊的にも「神とともに住む」ことが出来なくなってしまったのです。ここから神に背いた人の悲しみと苦しみの歴史が始まったのです。 しかし、憐れみと愛に富む神は、イスラエルの民の歴史を通して、全ての人に対する神との交わりの回復を告げるのです。やがてメシヤ、救い主が来る、と。 そして神の時が満ち、救い主がお生まれになりました。すなわち『受肉』「神が人となられた」イエス様の誕生、クリスマスです。 詩篇に、やがて来たるべきお方をこう表現しています。 24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。 栄光の王が入って来られる。 24:10 その栄光の王とはだれか。 万軍の主。これぞ、栄光の王。 この栄光の王、万軍の主であられるお方が、家畜小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かされていたというのです。 |
きらびやかな王宮ではなく、薄暗い家畜小屋で産まれ、しかも汚れた飼い葉おけの中に寝かせられた。これは、私の心の中を象徴的に表しています。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6:5)とありますように、まさに薄暗い汚れた私の心の中に住まうために、人となってメシヤ、イエス様は来て下さったのです。 一人の女子高生が生きる希望を失い、電車に飛び込みました。幸い命だけは取り留めたのですが、その時に両足と片手を失い、残っている右手も3本の指しか残っていない。と言う状況でした。 入院先の病院でも自殺をと、痛み止めの睡眠薬を致死量までこっそりと溜め込んでいたと言います。 そのような中で、イエス様に出会い「自分のようなものでも愛されている」と知った時、生きる希望を取り戻したのです。2005年4月に67歳で天に召された田原米子さんです。牧師と結婚し、二人のお嬢さんにも恵まれ、晩年は中学校や高校での講演活動もされたのです。 愛されると言うことは、たとえ目には見えなくても、ともにいてくださると言うことを感じさせてくれる存在です。 まさにイエス様はそのようなお方として、「わたしは、いつもあなたとともにいる」と約束して下さったのです。田原さんは、復活の主イエス様を見上げ、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない、天の御国を目指して、「神とともに住む」喜びをかみしめながら、地上での生涯を歩み通されたのです。 「いつもともにいる」と言う「いつも」は「今も」と言うことです。 今、この時イエス様は、死、悲しみ、叫び、苦しみの中にも、ともにいて下さるのです。「神とともに住む」喜びを味わう者とされていることを感謝しましょう。 |