牧師室'10.11


◎ 2010.11 ◎

「心が生きる」

25 大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。
   私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。
26 悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。
あなたがたの心が、いつまでも生きるように。
(旧約聖書 詩篇 22:25〜26)


  この詩編22篇はその表題に、「指揮者のために。『暁の雌鹿』の調べに合わせて。ダビデの賛歌。」とあります。ダビデがサウル王に命を狙われ荒野を逃げ惑う時に、暁に照らされ岩の上に悠然と立ち尽くす鹿の姿に感動を覚えたのでしょう。
  マルチン・ルターは「暁の雌鹿」とは「キリスト」であると言ったとあります。
  ところで、ナザレン教会の創立者と言われる、ブリジー博士が「暁に太陽などて沈むべき」との言葉を残し、聖歌(新聖歌436)にも歌われています。この「暁に太陽」もイエス様のことではないかと思います・・・。
  それは兎も角としまして、十字架の苦しみの中にあってもなお、イエス様のお心には、父なる神様への賛美があったのです。
  22篇の1節には、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」とあのイエス様が十字架の上で叫ばれたお言葉が記されています。
  そのように叫ばれたイエス様のお心には、この詩篇全体が鮮やかに思い浮かんでいたに違いないのです。
  十字架の、究極の苦しみ、痛みの中で、この詩篇のお言葉を口にされたと言うことは、死の先にある栄光の道を私たちにお示しになるためであったに違いないと思うのです。神様に見捨てられたと思えるような状況の中で、思い浮かぶとは思えない言葉が続きます。3節に「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」とあります。
  思いますと、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」とうめくように叫ばれたその後、全部が声にはならなかった言葉は、私たち読む者に深い感動を与えてくれるのではないでしょうか。
  お読みいただいた25節以下最後の部分は、苦しみの中にあえいでいたとしても、立ち直る道が備えられていることを覚えるようにと導いてくれます。
  私たちの信仰は、十字架信仰、復活信仰と言われます。十字架信仰とは、イエス様が私たちの身代わりとなって命を捨てて下さったことによって、罪赦され新しい命に生かされることを信じる信仰です。
  復活信仰とは、イエス様が甦って天の父なる神様の御許へお帰りになったように、私たちもイエス様と同じ栄光の姿に変えられ、永遠の都に住む者とされることを信じる信仰です。
  当然のことながら、十字架と復活は切り離しては考えられません。イエス様が「わが神、わが神。・・・」と叫ばれ死なれたけれども、三日目に甦って、イエス様ご自身が、聖であられるお方として神の右に座しておられるのです。
  私たちは生まれてきて死に行く世にあっては有限の存在です。しかし、十字架と復活の信仰に生きる私たちは、永遠の命という希望が与えられているのです。ですから、どの様な厳しい状況の中におかれても、生きる勇気を失いません。
ダビデはこう言っています。「大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。」と。
  私たちイエス様を信じる者には、主から賛美の喜びが与えられています。主の御名を褒め称える時、主ご自身がそこに臨在しておられ、私たちに平安を与えてくださいます。
  主の平安の内に歩むことこそが、永遠の命の希望に生かされていることを確信することなのです。
  ですから、「主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。」と、十字架の苦しみの中で私たちに目を向けてくださり、私たちが地上にあって生きる道をお示しくださった愛なるお方を、心いっぱい褒め称え『心が生きる』という経験を味わい知る者でありたいと思います。
  『心が生きる』とは主がわたしと共にいてくださる事を感じ喜ぶ心ではないかと思うのです。私たちの主であり、聖なるイエス様を賛美し、永遠の命の道を歩み続ける者でありたいと思います。