牧師室 '10. 9


◎ 2010. 9 ◎

「御国に至る旅路」

御国が来ますように。
みこころが天で行われるように
地でも行われますように。
(新約聖書 マタイの福音書 6:10)


  私たちがこの地上で生きる事は並大抵の事ではありません。生まれてこの方、病、別れ、争い、事故等々、一度も経験しないで今日まで生きてこられた方はおそらくおられないのではないでしょうか。
  勿論そうした辛い思いはしない方が良いには決まっています。
  でもだからと言って「さようなら」と簡単に天国へ行けるわけでもありません。パウロ先生が「自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)と言っていますように、私たちの人生は神様から与えられた人生であり、それぞれに果たすべき任務があるのです。とするなら、その任務を果たすために、辛い悲しい苦しい旅路であったとしても、いや、むしろそれが私に与えられた任務であると信じ歩むところに神の栄光を見る事が出来るのです。
  辛い、悲しい、苦しい出来事の中で、どうしても私たちは悲観的、否定的に見てしまいます。「どうして私が……。私だけがこんな目に遇わなければならないのか?」と。
 しかし、詩篇の記者はこう言いました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(119:71)と。
  「御国に至る旅路」すなわち、私たちの人生を、全宇宙を創造された偉大な神様の御手の中にあり、私の小さな知恵ではとうてい測り知る事の出来ないお方が、この私の人生を導いておられるのだと、信じて生きるなら、人生のすべての中で、生きる意味を見いだす事が出来るのです。なんとしあわせな事でしょうか。
  そして何よりも、私のために十字架に架けられ死なれたイエス様が、甦って天に昇られ、私のために取りなしていてくださるのですから、地上に於ける今この時を、感謝と平安を持って歩む事が出来るのです。それこそが私に与えられた任務ではないでしょうか。
  ある方が、病に倒れ床に伏す身になったとき、不思議な事に自分でも予期していなかった平安が、心の内に満ちていた。そして、導かれるまま主の祈りを祈ったとき、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」と言う祈りが、今自分の内に実現している事を知った、と証しされました。
  あるとき、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエス様は答えて言われました。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ 17: 21)と。
  イエス様が天に昇られたとき、イエス様の甦りのいのち、永遠の命は私たちのところに来たのです。ですから私たちは今、永遠のいのちの中をすでに生きているのです。自分でも予期していなかった平安が神様から与えられているのです。
  またある人はこう言いました.「この痛みは、イエス様の十字架の痛みに比べればたいしたことはない。少しだけれどもイエス様の痛みを感じる事が出来た事が嬉しい。そして何よりも、イエス様は一人十字架の上で死なれたけれども、私はこうして愛する家族に見守られているのですから、なんとしあわせなことでしょう」と。
  まさにここに天の御国は実現しているのです。
  私たちのなすべきことは、イエス様に信頼し真心込めて祈り求める事です。「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」アーメンと。