|
さて、皆さんが今大切にしているもの、あるいは人、その他なんでも、と言われたら何を一番に上げるでしょうか? ある大学の先生が、自分のゼミの生徒に、紙に「今自分が大切にしている物、人、なんでもいいから20個書いてください。」ある生徒は、パソコン、携帯電話、恋人、家族、ペット、貯金通帳・・・。 「さて、その中から、10個削ってください。」更に「では5個、3個。」残りは2つです。最後の1つを決めます。だいたい30人くらいのクラスです。さて、皆さん、最も多かったのは何だと思いますか?半数以上の生徒が20個上げた大切なものの中から最後の1つに上げたのは、「お母さん」だったそうです。 因みに「お父さん」は6番目くらいだったそうです。ペットが4番目くらいだそうですから、お父さんはペットより大事にされていないのでしょうか?何となく寂しい思いがします。 ところで聖書の中には、イエス様が宝について話された例え話がいくつか記されています。マタイの福音書 13:44に「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」と、天国を宝にたとえています。 私たちにも、それぞれ大切と思われる「宝もの」はたくさんあると思います。でもそれらのものは、やがて失われ、地上での生涯を終えた時、持って行けるものは何一つありません。 けれども、聖書は決して失われることのない「宝」があると私たちに約束してくださっています。それは、イエス様によって与えられた永遠の命への約束です。パウロ先生はそれを「祝福された望み」(テトスへの手紙2:13)と言ってます。 また、宗教改革者マルティン・ルターは『福音によって私たちは、この世の物質や金や権勢、名誉や喜びや幸福、またこの世の生命ではなく、希望という宝を与えられています。』と言いました。(【マルティン・ルター日々のみことば】より引用) |
最初にお読みいただきましたテトスへの手紙2:13を見ますと、「・・・私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むように・・・」とあります。 ところで私たちは、いつまでこの「祝福された望み」「希望という宝」を待てばいいのでしょう。いつ手に入れる事ができるのでしょうか? ルカの福音書 17:20b〜21には次のように言われたイエス様のお言葉が記されてあります。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と。「祝福された望み」「希望という宝」」は、イエス様を信じる者のうちに既に与えられているのです。 私たちにはこの地上で生きていくために大切なものれぞれの「宝」と思えるものが与えられています。それはそれで、正に大切なものとして感謝して用いる事は当然の事です。 しかし、20あった中から、あれを削り、これも削りして、最後に残るあなたの「一番の宝」は何ですか?と尋ねられたなら、あなたは何とお答えになりますか?『希望という宝』ですと、自信を持って言えるでしょうか。 しかし、『私たちのただ中にある』という事は、信仰によって信じ受け入れる事です。これは、神様の保証の付いた約束です。 そして、いま信じ受け入れている事は、イエス様が栄光のうちに再臨される時、確実に私たちのものとなるのです。神様の保証付きの「祝福された望み」を待ち望みましょう。 |