牧師室 '10. 6


◎ 2010. 6 ◎

「神よ、あなたはどこにいるのですか?」

私の涙は、
昼も夜も、
私の食べ物でした。
人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。
(旧約聖書 詩篇 42:3)

  何かの本で読んだのですが、牧師先生がしばらく教会に来ていないご婦人を訪ねた時の事です。そのご婦人(Aさん)がこう言ったのだそうです。「先生、教会へ行くと皆さん、『恵まれました。感謝です!』というのを聞きますが、私は長い信仰生活の中で、皆さんのように『恵まれました。感謝です!』と言う経験が全然ないのです。ですから教会へ行くと惨めな思いになるので、教会へは行きたくないのです。」と。「そうですね。ま、挨拶代わりというわけではないでしょうがよく耳にしますね。でも、そう仰る方々も、何も問題がないと言うことではないと思いますよ。色々悲しい事や苦しい事の中にあっても、それを乗り越える事ができる道を備えてくださる神が共にいてくださる。それが恵みであり感謝なのだという事ではないでしょうか。」そして、詩篇を開いて読みました。
  『42:1鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。』
  「Aさん。あなたの魂も渇いているのです。」
  そして更に『42:3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。』
  すると婦人は「先生、この私というのは正に私です。祈ろうとすると、『おまえの神はどこにいるのか』と、ささやきかける声が聞こえるのです。苦労の連続で、何も良い事などなかった。祈っても無駄だ……と。」そしてAさんは続けてこう言いました。「初めからそうだったのではないのです。イエス様を信じたとき、喜びと感謝がありました。教会に行く事も楽しみでした。でもいつの間にかイエス様よりも、奉仕をする事で認められたい、そして、人との交わりを求める心の方が大きくなっていったように思います。
  今思うと、そんな中で『恵まれました。感謝です!』ということばを聞くたびに、その人たちと自分と比べて、神さまは私の事などどうでもいいのだ。と思うになってしまったのです。」と声を詰まらせました。ほほには涙が伝っていました。牧師先生は続けて読みました。
  『42:4 私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。 42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。』
  私はこの話を思い出し、そして改めてこの詩篇を読んだとき、私の内にも、日々餓え渇きがある。そしてこの餓え渇きを癒してくださるのは聖書の中に記されている神のことば以外にはない、と確信しました。
  特に詩篇は、私が心痛み、悲しみ、餓え渇き、苦しみ叫びたくなるような時、私の心を代弁してくれているように思います。なぜなら、同じように悩み苦しみの中でうめき叫び求めた人の姿がそこにはあるからです。『神よ。あなたはどこにいるのですか?』と叫べばいいのです。でも叫びっぱなしではいけません。み言葉に心を向け、イエス様の臨在を仰ぎ、待ち望みましょう。主の平安が必ず訪れるでしょう。
  イエス様はこう言われました。
  マタイ28:20b『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

アーメン!!