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誰しも、歩んできた人生の中で、一度や二度「どうして?なぜこんな辛い目に?」と思えるような経験をなさっておられるのではないかと思います。そしてその答えを得ようともがけばもがくほど暗闇へと引きづり込まれていくように思うのです。ヨブ記に記されているヨブは,正にそうした極限の辛さを味わった代表的なひとりです。 ヨブはご存じのように、神を恐れる正しい人でしたが、サタンの挑戦によって、神がお許しになった試練に会い、家族や財産を一瞬のうちに失います。しかしヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と告白し、罪を犯さなかったと聖書は記しています。しかしここからヨブの苦悩の人生が始まります。 ヨブは決して神を呪ったり、神を否定したりはしていません。 しかし、訪ねてきた友人に、『こんな辛い目に遭うのは、罪の結果に違いない。』と責められるのです。ヨブのような苦難に会うと日本人だけではないと思いますが「神も仏もあるものか。」と神を否定したくなるのではないでしょうか。 ヨブは家族や財産を失っただけではなく、自らの肉体までもが悪性の腫瘍に蝕まれ、苦痛にもがき苦しむのです。そんな中で、ヨブの叫びは「なぜこのような苦しみに会わなければならないのか、その意味が知りたい。神よ、それが知りたいのです」と訴えるのです。 「私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。」〈23:5〉と。 しかし神は、ヨブの問いには直接お答えにはならないで、いえ、逆にヨブに問いかけられるのです。 「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。」と。 つまり、私たち人間には知り得ない、未知の世界があると言うことです。人間の限りある知恵、知識では理解できない世界があると言うことです。しかし、そうであったとしても、神様は私たちの全てをご存じであり、私たちは神様の御手の中にあるのだと言うことを知ることが最大の知恵なのです。ヨブ記はその事を私たちに知らせようとしているのです。 |
そして、この事を理解しようとするなら、頭ではなく聖書を通して語られる神の言葉に心を開くことです。すなわち、信仰によらなければ、目に見えないもの、自分の頭で理解できないことを受け入れることは出来ません。 とても元気なご婦人でした。60年健康診断以外で病院に行ったことはなかったのです。ところが、ある時どうも体調が優れないというので病院へ行きました。 膵臓癌との診断がくだされ、もって六ヶ月と言われました。大きなショックに『神様なぜですか?』と叫んだ。夜一人になると涙が止まらなかった。平安はなかった。ところが、医師から、病院にいてもこれ以上治療の方法はない。出来れば家族と過ごす時を持つようにと、自宅療養を勧められた。このご婦人は、『ああ!医者に見捨てられてしまった。』と思ったその時、「わたしはあなたを捨てない」(※)との主のお言葉が心に迫ってきた。悲しみの涙ではない、感謝と喜びの涙が溢れてきた、と話して下さいました。 そして2年後に、平安のうちに天に召されて行きました。その間何度か礼拝にも来られ、『こうして礼拝に来,愛する兄弟姉妹と共に賛美が出来る。こんな感謝な事はない』と言っておられました。 どう考えても、感謝が出来る状況ではありません。これこそが未知の世界です。そして、最大の未知は、十字架です。神の独り子が、私のために死なれたと言うこと、これは最大の未知の世界です。そしてこれが、信仰の世界です。 ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と告白しました。この告白の中に、すべての事の答えがあるのです。 なぜなら地の基を据えたのは主であり、私を造られたのも主なのですから。 ※「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。」 (ヨハネ14:18) |