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「平凡が一番の宝物」…という諺がノルウェイにあるそうです。実は、昨年から10年日記というのをつけ始めました。昨年の同じ日付の下に今日の出来事など、簡単に書き留めていくのです。 すると、数日のズレはあるにしても、同じ事を繰り返していることに気づかされる。一月一日元旦礼拝から始まり、イースター礼拝、教会総会…と。もちろんその中身は同じではない。孫の成長など一年前とは書くこともずいぶん違う。けれども、ふと考えると、なんと平凡な日々なのだろうかと思わされる。明日はシメオン会、そして祈祷会、夜はキヨメ派聖会の準備祈祷会、そして青年会聖研・・と。昨年とほとんど同じ。 でもノルウェイの諺にあるように、実はこれが大切なこと「宝物」なのだと六十を超えた今は、ああ、本当にそうだなぁと思わされる。つまり「いつものように」できることの幸いをどれだけ感謝しているだろうか。 聖書の中にイエス様のお姿を見る時に、一つの鍵となる言葉はこの「いつものように」ではないかと思うのです。いつもイエス様の側には群衆が詰めかけて来ました。病人を癒され、悪霊に取り憑かれている人を解放し、時には子どもたちの相手もしました。超多忙な生活を送っておられました。 そのようなイエス様が「いつものように」(39)「いつもの場所」(40)でなさっておられたことがありました。それは、何でしたでしょうか?健康のためのジョギング・・・・?いいえ、それは「祈るため」でした。超多忙なイエス様にとってどうしても欠かすことのできないこと、それが「いつものように」「いつもの場所」に行って祈ることだったのです。 一人静かに祈る時、最も深く神の臨在に触れることができるのです。 イエス様でさえそうだったのですから、私たちが神さまの臨在を味わおうとするなら、なおさら欠かすことのできないのは「いつものように祈る」ことではないでしょうか。 |
ジョン・ウェスレーは毎朝4時に起きて書斎の同じ場所に跪いて祈りました。床にはその跪いた跡が残っているそうです。もしそれを「平凡な毎日」というなら、まさにこれこそ「宝物」なのではないでしょうか。当時英国の霊的乾きを癒し、信仰復興(リバイバル)をもたらせた原動力はこの「平凡な毎日の祈り」にあったのです。 さて、お読み頂きましたルカ22:39以下はよくご存じの箇所と思いますが、最後の晩餐の後、十字架を前にしたイエス様が、「いつものように」「いつもの場所」オリブ山へ出掛けた時のことが記されています。 十字架を前に、イエス様は「苦しみもだえ」(46)祈られたとルカは記しました。 このようなイエス様の祈りの姿に誰もが心痛む思いを抱かれるのではないでしょうか。しかも、一緒に行った、ペテロとヤコブとヨハネは寝てしまったというのです(マルコ14:33〜37)。聖書って本当に正直に記していますね。 でも、私なんかは笑えません。同じような姿で寝入っている自分がそこにいるからです。 イースターの礼拝を終えて、大きな喜びを与えられたのと同時に、イエス様の苦しみもだえが、私のためだったんだということを決して忘れないようにしたいと思います。平凡な生活の中で、私たちにとって「いつものように」とは何でしょうか? この平凡な日々の中で、「いつものように」祈ることこそが、オリブ油ではありませんが、信仰を健全に保つところの潤滑油なのです。 そして、いつも祈りの中で私たちはイエス様と深く交わり、その臨在の中で憩いと平安を頂くことができるのです。 祝福がありますように! |