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小鳥が梢で さえずる朝 花が露に濡れ 咲きいる朝 私の近くに 近くにおられる 主イエス様が 近くにおられる(水野源三作詞) 御存知の方もおられると思いますが、この詩を作られた水野源三さん、寝たっきりの生活の中で、何千という詩や短歌を作りました。そのいくつかの詩に曲が付けられ歌われています。新聖歌の中にも2曲、292番と334番に入っています。上の(小鳥が梢で)曲は残念ながら新聖歌には入っていないのですが、私の好きな歌です。 話すことも、書くことも出来ない源三さん。お母さんが、あいうえお表を指さしながら、瞬きで示す時一字一字を書き留めて出来上がったのがこれらの詩です。ですから、源三さんは「瞬きの詩人」とも言われています。 イエス様を信じてからは、主を賛美する言葉が溢れんばかりに心に湧き上がってくるのでした。言うまでもありませんが、信仰は頭で理解するものではありません。それは霊における神様との交わりです。 詩篇の23篇3節に、「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」とありますように、イエス様に出会って私たちの死んでいたたましいは生き返るのです。 そして主イエス様は約束して下さいました。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」と(マタイ28:20)。ではなぜ、イエス様が共にいて下さることが分かるのでしょうか。それは、これも主の約束の通り、助け主なる聖霊様が私たちの内に住んで下さるからです。しかし、これは信じることなしには与えられないのです。聖霊様も目には見えませんから、霊において感じるのです。主イエスの十字架による罪の赦しを確信するなら、そこに聖霊様が共におられるのです。 |
主にある感謝があるなら、そこに聖霊様が共におられるのです。賛美があるなら、そこにも聖霊様は共におられるのです。聖霊様が共におられるなら、間違いなくそこには主イエス様も共にいて下さるのです。 最初にお読み頂きました詩篇145編の18節を見ますと、「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」とあります。「まことをもって主を呼び求める」とは、「信じて祈り求める」と言うことではないでしょうか。 新聖歌334番を見て頂きましょう。 1.朝静かに この一日の御恵みを祈りおれば わが心に溢れくる 主イエスにあるやすらぎ (2節3節省略) 源三さんは、朝静かに祈り、み言葉に聞き、主の恵みに満たされる時、その心に主にある喜びが溢れてきて、神様をほめたたえる賛美の歌が生まれてくるのです。 主が共にいて下さるなら、そこにはすらぎがあり、希望が与えられ、喜びが溢れて来るのです。まさに詩篇の記者が言っているとおりです。 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。(18) これは主の約束です。そしてこの約束を信じ歩む私たちに、やすらぎを与え、今日という日を希望を持ってい生きるように導いて下さるのです。 主をほめたたえましょう。主が近くにおられるなら、すべての口(人)が主の誉れと主の聖なる御名をほめたたえるのです。 |